カテゴリ:記憶のメモ( 3 )
搬送
わたしを載せた担架がごろごろと動き出して病院の建物を出ると、外はたじろぐほどのいい天気だった。救急車が待っているのが視界の隅に見えた。これは思いがけず大変なことが起きかけているのかもしれないぞ、と心の中の小さなわたしが言う。
ちょっとした衝撃とともに担架が車に運びこまれる直前、わずかに目を開けると空が見えた。救急車には乗ったことがあるから中の様子はわかっているつもりだったが、担架に横たわって見上げるその内部は、まずその視線の仰角が鮮烈な視覚的刺激だった。まるで手術室のように白い車内には病院の延長である生と死の臭いがしたが、わたしの感覚はいくらか死に近づいた病人というよりも、野次馬的好奇心が不安を上回っていた。
救急隊員のひとりがわたしの脇に寄り添った。彼はなるべくわたしに心理的圧迫を加えないように気を使いながらわたしのからだの状態を知ろうとしていた。簡単な問答を繰り返すうち、救急車はサイレンを鳴らしながらスピードをあげた。天井の高い車内は壁面にいくつかの機器がかかっているほかは意外にがらんとしていた。ひとつの病院から別の病院へと搬送されるわたしには特にすることもない。強いていうならなるべく手の掛からないようにおとなしくしていることだろうか。
事態は思いがけず急展開していた。いまやわたしは手術設備の整った大病院への緊急搬送を要する危険な状態の病人としてこの世に存在しはじめているのだった。わたしの個人史や思考や人間関係などどうでもいいことで、わたしとは壊れかけた肉体の器官であり、またそれらを覆う薄い皮膚である。救急車は壊れかけたわたしを病院という神殿へと運ぶために天翔る神ののりものだ。そこでは近代医学という名の呪術がわたしの命をこの世につなぎ止めるために待ち受けている。
いくらも走らないうちに目的の病院に着くと救命救急の初期的プロセスがあわただしくはじまった。搬送された簡易ベッドに横たわったままのわたしの周囲では救急隊員と看護婦たちが交錯する。病院の職員らしい女性が近づいてきて「保険証はお持ちですか」といった。ええ、ありますよ。医師らしい男性が来てわたしが担当医ですといった。ああそうですか、よろしくお願いします。周囲の様子を寝たままで見ていると、これはちょっとしたドキュメンタリーでありノンフィクションだ。わたしはその中心人物で、わたしの容態が周辺の状況を律している。
状況はそれからも一分単位で変貌した。ICUに運ばれ、あわただしく容態の説明を受け、からだにはいくつもの線や管が取り付けられて病人ができあがったかと思うとさっそく手術室に運ばれた。そこには人数は分からないが少なくないひとびとがいる気配があった。これはようするに事態が悪化した場合に備えているのだな。
わたしにとって生涯ではじめての手術がはじまろうとしていたが、ここでも好奇心が不安を上回っていた。旅客機で飛び立つ気分にいくらか似ていた。死ぬかもしれないが、自分がその死へのプロセスに積極的な役割を果たすことはできない。わたしは自分の運命の傍観者であり、また観察者である。最悪のケースでは、死に至るまでを報告することができるだろう。ことによると死後の世界さえ報告できるかもしれない。
手術は短時間で終わり、ICUに逆戻りする。あわただしい事態の急転回は私に考えさせる余裕も時間も与えなかったが、時間がすこしゆるやかにすすみはじめたために思い返すことができるようになった。それはおそらく喜ばしいことだ。わたしは緊急手術をようするほど危険な状態にあったわけだが、危機を危機として理解した上でなお、そのような状況を深刻に受け止めたり考え込んだりする暇がなかったことが喜劇的だ。笑いは状況への客観的な視点と関わっており、なんらかのアンバランスに起因するのだな。
ICUは静かだった。背後ではわたしのさまざまな生体データが数字とグラフで表示されている。これまで何度かそのようなグラフがしだいに波動と脈動を失って一本の水平線に収束してゆくのを見たことがある。それはつまりひとの死の視覚的な表現であり、わたしの場合は肉親の喪失を告知していた。そのときのことを思い出していたが、特に感慨を伴うことはなかった。
ベッドに横たわって特にかんがえるべきことはなかった。生体のちからとでもいうべきものが旺盛ならば生命はそこで途切れずにすむ。わたしの場合、死はそこには準備されていなかったらしく、いくらか先だったのだろう。わたしはどうやら死から遠ざかりつつあるらしかった。
こうして死をかいま見る短いツアーは終わった。それはまさに旅の一種であるとともに、いずれ間違いなくやってくる本物の死の予告編でもあった。その後、不思議なことに死は懐かしくも親しい存在となって身近に息づきはじめた。
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by hatano_naoki | 2008-05-25 16:08 | 記憶のメモ
セスナがビラを撒きながら飛んでいく
単発・高翼で脚を出したままの小型機セスナがビラを撒きながら飛んでいく光景は昭和三十年代初頭の東京ではよく見られた。
ブーンというエンジン音がずっと遠くから聞こえていた。それから小さな機体が視界に入ってくる。セスナは超低空というわけではなく、おそらく二、三百メートルかそれ以上の高度で水平飛行しながらビラを撒いた。ビラをどのようにして撒いたかはわからなかったが、たぶん窓を開けて手で空中に投げ出したのだろうと思う。機体を離れてすぐは黒いかたまりで、しかしすぐに広がって飛行機から延びる幅広の帯のようになり、飛行の曳く航跡のようになって、それから次第に拡散していき、やがて一片一片がひらひらと舞う紙片であることがわかってくる。空を無数のひらひらが覆ったと見る間にそれらはわたしたちの間近に舞い降りてくる。
ビラがわたしたちの上に降ってくる幸運は当然のことながら極めてまれだ。わたしたちは空を眺め、ビラの流され方から落下地点を予測しながら路地を走り、それらが地面に到達する前に空中でつかまえようとする。高い空から落ちてきてまだ空中にあるものをつかむとき、それはなんだか実に価値のある行為のような気がしていた。
ビラは粗末なわら半紙かなにかにどこかのお店の大売出しの文字を刷ったような内容だったと思う。それを空から撒くとは考えてみれば実に素朴かつ無謀な広告の手段だ。今はそういうことはなくなったからある時期に禁止されたのだろうが、それがいつだったかはおぼえていない。あるとき気がついたらビラを撒くセスナ機の姿はみえなくなっていた。もうセスナの撒くビラを追うことはないが、似たようなことをいまだにしているような気がしないでもない。
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by hatano_naoki | 2008-04-21 21:30 | 記憶のメモ
はじめての読者
記憶の底に沈んでいて、ごくたまにあぶくのように浮かび上がってくるイメージをどこかに固着しておきたい。とりあえずは短いメモにしてブログに貼り付けておこうかと思う。

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 二十代の終わりにちかくなって、小さな本を自費で出版した。編集者になるための専門学校に通っていた知り合いと御茶ノ水の喫茶店『穂高』で落ち合っては本を作る作業の実際を教えてもらいながら進めていった。インドに旅したときの旅日記をもとにして書いた四万字ほどの原稿を三十二ページの小冊子に押し込んだのは三十二ページというのが紙の取り都合からいうと無駄がないと教わったからだし、三十二という数字もなんとなく気に入った。
 紙を選ぶのは実に楽しい作業だった。紙の手触りは本を取り巻く喜びの半分は占めているに違いないとわたしは思っている。そのときは厚手の黄ばんだ色合いの用紙を選んだ。ページ数の少なさをカバーする目的もあったが、厚手の紙に活字を刻み付けるように印刷された活版の文字が好きだった。そう、その当時は活版印刷が生きていたのだ。
 原稿ができあがると武蔵小山の裏道にあった小さな印刷所に印刷を頼んだ。千部作って十万円。校正刷りができたというのでその印刷所に行くと、中年の文選工が「おもしろかったよ」と声をかけてきた。文選工という職業は今はほぼ消滅してしまっている。印刷のための活版を組むために鉛の活字を拾う仕事だ。
 文選工という仕事は無感動にただただ文字を拾う仕事だと思っていたわたしはちょっと驚き、それから気恥ずかしさとうれしさがわきあがってきた。わたしの本のために活字を拾ってくれたそのひとこそがわたしの文章の最初の読者であり、「おもしろい」といってくれた最初の人物だった。
 できあがった本は一部三百円で売った。あちらこちらの書店に委託で置いてもらい、友人たちも買ってくれた結果、三百部が売れて原価を回収できたのには自分でも驚いた。それから三十年経ち、在庫はまだある。
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by hatano_naoki | 2008-04-18 21:12 | 記憶のメモ