<   2005年 08月 ( 9 )   > この月の画像一覧
展示「わが内なる博物館的欲望」
架空のイベントの話である。
私の興味の対象をモノあるいはイメージとして展示してみたらどんなイベントが現出するだろうかと考えた。
こういうイベントが実現したら、ひとによっては自分のコレクションを展示するだろうし、読んだ本、見た映画、会ったひと、訪れた土地を展示するかもしれない。女好きな男はこれまでに寝た女たちの記憶を展示するだろうし、自殺志望の少年はそれまでに想像した自殺の方法を一覧展示するかもしれない。
自分を構成しているモノ、イメージ、欲望、記憶、後悔、職業的スキル、人的関係、その他もろもろの破片の一覧展示。
こういう行為は、私の中にある「博物館的欲望」を解放してそれらに一定の体系を与えることになる。個人のウェブサイトやblogには基本的にこういう機能が埋め込まれているが、それを意識的に拡張して具体的な展示としてみたらどうかということだ。
ではなぜこういうイメージを持ったのか。おそらく民博(国立民族学博物館)を見たことが引き金になっているが、私の中に自分の展示=自己顕示の思いつきが育っていたのも確かだ。このいまひとつ判然としない思いつきの真の理由はおそらく、今ひとつ燃え上がらない創作的活動への衝動にあるに違いない。

d0059961_0284331.jpg
[PR]
by hatano_naoki | 2005-08-29 07:08 | 日日
未来を語らず
現代の日本において未来を語るという習慣が失われて久しいという気がする。
私が子どもだった1960年代にはまだ未来というものが存在しているように思えたし、それらは具体的な姿を伴っていた。経済的な発展と生活の向上というモデルである。
今日は昨日よりもよく、明日は今日よりも良い。それはほとんど約束された未来だった。

未来が語られなくなったのはいつ頃からだろうか。
気がつくとメディアは未来を語らず、人々も未来を語ることをしない。誰も飢えず、町は明るく照らされ、交通機関は定刻どおりに発車するが誰も幸せではない。
私は何のために生き、誰のために死んでゆくのか。今、この国で根源的なものが失われていることが露わになってくる。かつて未来はモノの領域にあったが、今ではココロの領域に移行した。そのココロの領域にあるべきコアのようなものが見当たらない社会は腑抜けである。
その理由は、わたしの独断では、私たちが自らの力で未来を切り開いて来なかったからだ。
戦後の日本は過酷な経済的な戦争(あるいはゲーム)を戦い抜いたが、その戦いが生易しいものではなかったのは誰もが認めるところだろう。それはそうなのだが、その戦いはあくまでも大きな傘の下に庇護されており、まったくの孤立的な戦いではなかった。
もちろん経済的なゲームに資源を集中したことは賢明だったといえるが、それがココロの空洞化と引き換えだったことに気がついたのはずいぶんあとになってからだった。

わたしもまた未来を語らない。
では未来がないか、あるいは暗いのかといえば、実際にはそうともいえない。未来への社会的なビジョンがなく、そこに生きる私が途方に暮れているのは事実だが、未来へのビジョンを創出したいという意識もある。これはかなり大事な課題だ。実際、夢見る未来がなければ私たちはやがて滅びることになるだろう。
では一個人である私にそんなことができるのだろうか。
私はある程度はできると思っている。
それはモデリングである。私という一個人が内向してココロを見つめ、そこから未来を夢見ることができれば、それを超ミニサイズでモデリングすることができる。自分がそのように生きようとするということだ。時間はどこでも同じように流れているわけではない。場によって過去だったり未来だったりする。そういう意味で、自分のまわりに未来を呼び寄せてちょっとはやい未来を生きるのだ。
そういう多様なモデリングの現象があちこちに生まれるなら、それは一定のダイナミズムとなるだろう。その場はインターネット上を借りる可能性がある。
未来はインターネット上のささやかなblogから生まれるかもしれないと、たまにはblogを持ち上げておこう。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-08-23 20:05 | 日日
ジェノサイド
ジェノサイドということばはナチスの戦争犯罪を裁く過程で作られたことば(造語)だという。
ギリシャ語で民族、種族を表すgenosと、ラテン語で殺害を表すcideを組み合わせたもので、ニュルンベルグ裁判が企画されナチスによるユダヤ人大量虐殺を指弾する過程で作られた。その定義は1998年の国際刑事裁判所規程(ICC 、ローマ規程)によれば「国民的、民族的、種族的または宗教的な集団を、全部または一部、それ自体として破壊する意図をもって行われる次のいずれかの行為をいう」とされる。
具体的には、
1)集団の構成員を殺すこと。
2)集団の構成員に重大な肉体的または精神的な危害を加えること。
3)集団の全部または一部の身体的破壊をもたらすことを意図した生活条件を故意に集団に課すこと。
4)集団内の出生を妨げることを意図した措置を課すこと。
5)集団の子どもを他の集団に強制的に移すこと。
を指すという。

ジェノサイドは基本的には異民族の民族浄化を目的とするが、カンボジアにおけるジェノサイドの場合、自民族を殺害の対象としたという特殊性から「オート・ジェノサイド」(自民族の大量虐殺)ということばが作り出されるにいたった。
私の興味の対象であるカンボジアで行われたジェノサイドの特殊性と普遍性を理解するには、当然のことだが、個別のケーススタディを通じてジェノサイドの変容とそれらのメカニズムについて知る必要があるだろう。

現時点ではジェノサイドに関連して、一般論としてこんなことを考える。
人間はどこまでも残虐になれるし、また残虐な行為に慣れることができる。理性など消し飛んでしまい、自動機械のように人を殺すことができる。低レベルの教育に麻薬的なプロパガンダが加わると誰でも容易に人殺しになれる。高等教育を受けた者でも容易に人殺しになれる。
監獄国家が成立するのを阻止できないことがある。
ナチ・ドイツでも戦前の日本でも同じだが、社会に悪の自動的メカニズムが組み込まれ、それがうまく動き始めると止めるのがむずかしくなる。そればかりでなくその動きはすこしづつ速くなり、メカニズムの要求は過酷になり、最後には多くの犠牲を出して自滅する。人はもはやそれに奉仕するしかない。
外の世界である国際社会は頼りにならない。誰も助けてはくれない。
多くの弱い国でジェノサイドが起きたが、いずれも阻止されることがなく、周辺国家間の力学と大国間の力学の二重構造の中で人々は見殺しにされた。
国家は外的から身を守る防壁であると同時に牢獄にもなりうる。
指導者と大衆は同じレベルで信頼できない。悪の指導者が国家を指導することがあり、善意の大衆が彼を支えることがある。社会が狂うことがある。規範が狂い、価値観が狂う。
悪を働いた者が罰せられるとは限らない。悪を働いた低い地位の者は私刑をふくむ厳しい罰を受けることがあるが、高位の者は罰せられないどころか新体制の権力者として生まれ変わることすらある。

・・・まあ、考察を進めよう。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-08-20 13:06 | カンボジア
ことばの神さま
私でさえ、ときとしてことばの神さまが近くにいると感じる瞬間がある。そのとき、自分の尺度では最上級に属する幸せを感じる。
ところでここ二年ほど、ひとつの原稿にとりつかれている。
この原稿に膨大な時間を吸い取られている。その割に内容にも原稿量にも満足がいかないという、いわば最悪の状態が続いている。実際にはそれほどおおげさな話ではなく、進み具合がおそいというだけなのだが。

ここ何年か、ことばの神さまはあまり近くにはいなかったようである。
しかし書くという作業は私の内部に埋め込まれている。書かないということは考えられない。書くことは呼吸のようなものだ。書くことで自分が救われる瞬間も経験してきた。
ではどうすればことばの神さまを呼べるのだろか。
ごく最近になって、ことばの神さまがどこかにいるのではないかという気配を感じた。自分の分析では、それはここしばらくの私の感情生活の結果である。私の見たもの訪れた場所会ったひとの記憶が醸成されつつあるという予感である。
結局のところ私は体験型であり、書斎に生きる人間ではない。何かをすることで触発され励起するものがある。

気配を感じることばの神さまとの付き合い方だが、神さまが姿を現すまではおそらく私の感情生活ができるだけ刺激的であることが肝要だ。それはまるで神さまを呼び出すための儀式の様相を呈する。おそらく私はことばを得るためには魂を売り渡してもかまわないと思っているのだ。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-08-20 06:32 | 日日
聖母(マドンナ)たちのララバイ
d0059961_53732100.jpgフジ系の「上海ルーキーSHOW」を見るでもなく見ていたら、岩崎宏美が登場して「聖母(マドンナ)たちのララバイ」を歌いはじめた。この曲と歌手がずっと好きだった私はすぐさまAmazonでシングルCDを注文したのだった。
この曲は日本TV系「火曜サスペンス劇場」のテーマ曲として昭和56年(1981)9月29日~昭和58年(1983)4月26日の間放送され、翌年レコード化された。1958年11月12日生れだというから岩崎宏美はアイドルとはいえない年齢になった頃にこの曲に出会ったことになる。
デビューした頃は美少女とはいえないまでも清楚な雰囲気を持っていて、どのクラスにもひとりはいる、魅力を発散するタイプではないが気になる存在である少女の類型に属していたし、なによりも楽器のように美しく澄んだ声の持ち主だった。
その彼女は現在46歳になっているはずだ。ずっと前に結婚してその後離婚したことはテレビの芸能ニュースで知っていた。今は歌手としての活動をコンサート中心に活発に行っている様子が彼女の公式サイトからも伝わってくる。
いまだに凛とした雰囲気を漂わせていて、その年齢の女としては十分すぎる魅力があると同時に年齢にふさわしい重みとすごみがあり、それは時間のなせる業だからしかたがないことだが、やはりいくらかの落胆を感じるのは身勝手だと分かっている。

私の印象では「聖母(マドンナ)たちのララバイ」は歌詞のセンチメンタリズムと歌い手の媚びない歌唱がうまくマッチしている。そこに生まれるロマンチックな世界に入り込むならば、歌謡曲だから許される口当たりのいい陶酔感を味わうことができる。
注文後あっという間に到着したシングルCDからmp3ファイルを作って携帯に入れ、喫茶店で今書いている原稿に手を入れながら何十回も聴いた。
聴きながら、ああ、おれには過去がないな、と思う。
過去を思い出して回顧するという習慣がほとんどない私にとって、過去を思い出す稀な瞬間がかつてのアイドル歌手との遭遇だ。
そのとき、小学校の同級生と再会したときのような時間が過ぎてゆくことを実感する。ほとんどの場合それは悪い気分ではなく、ほろ苦くて少し甘い。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-08-18 02:18 | 歌が私を・・・
さびしい記念碑
d0059961_1510413.jpg国立民族学博物館(通称民博)は千里万博記念公園にある。
この公園はその名の通り1970年に開催された大阪万博の跡地であり、大規模施設である民博は跡地利用における知の中核施設といえよう。
モノレールの「万博記念公園」駅で降りて以前から見たかったこの博物館に行くために小雨の中を歩いていった。エキスポランドは人気があるようで多くのひとびとがそちらを目指すが、中国高速を越えて公園を目指す人影はまばらである。

公園のゲートを通過して民博に向かうと、万博の残した記念碑のひとつである岡本太郎作の「太陽の塔」が迫ってくる。
この奇妙な塔の評価は賛否両論だったと思うし、私自身も否定的だった。しかし35年が経って公園となった広い空間にひとつだけ立っている巨大な塔の前に立った私は思いがけない感慨を抱くことになった。この塔がある種の悲しさとかさびしさを漂わせているように思えたのだ。

その理由は明快だ。
ここは万博の会場跡地である。のべ約6421万人もの入場者を迎えた場所からこの塔を除く施設のほぼすべてが取り払われた。今私たちが見ることができるのはこの塔を除けば「お祭り広場」の上にとりつけられていた幅108メートル、長さ292メートルもの大きさを持つ屋根の構造を支えていたフレームの一部などにすぎない。
短期間にせよ多くのひとびとのエネルギーが集中した場所が今はほぼ無人の空間になっている。その目撃者である記念物がこの「太陽の塔」であるという意識が私の中にある。

私個人は大阪万博を特に高く評価しているわけではないが、日本が懸命に働いて豊かさを手に入れる過程であの博覧会が象徴的な存在であったことは否定できない。私もその現場を見たひとりである。
私が大阪万博に行ったのは夏の暑い時期だった。20代前半だった私は逆瀬川にあった親戚の家に泊まり、電車を乗り継いで会場に向かった。広い会場を歩き回ったが何かに感動をおぼえた記憶はない。混雑のために人気のあるパビリオンには入場できず、人気のない小さなパビリオンのいくつかを見るだけだった気がする。万博の熱気は感じたものの、その歴史的な意義を感じるには至らなかった。

公園を歩きながら記憶をたどってみたが、万博会場の記憶はよみがえらなかった。ただ、かつての戦場をあるくような気分がした。
「太陽の塔」は背後でしだいに小さく遠くなり、私は孤独な塔のことを忘れて次第に近づいてくる民博で一体何が見られるのかわくわくしはじめる。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-08-16 13:58 | 日日
JAL123便の夏
バンコク中央駅のすぐ西側をスリクルン運河が南北方向に走っている。
その運河に面して立つ古いホテル、クルンカセム・スリクルンの一階にある食堂で朝食を食べていると、天井からぶら下がった17インチくらいのテレビに航空機事故のニュースが映し出され、やがてそれが日本での事故であるらしいことが分かってきた。
それがJAL123便の事故を知った瞬間である。

1985年8月はじめ、会社勤めを辞めた私はタイへの旅に出た。バンコクに到着して最初に滞在したのはチャイナタウンにあるホテルだったが、それからタイ北部を歩き、バンコクに戻ってきて泊まったのがクルンカセム・スリクルンである。ホテルとしては中の下くらいの位置づけだっただろうか。部屋が広いのだけがとりえで、窓からは中央駅のカマボコ型の屋根がよく見えた。
当時のバンコクは高層ビルの林立する東京に似た町ではなく、焼けたアスファルトの上をトゥクトゥクがみずすましのように走り回り、いかがわしさと活力のいりまじった濃厚な雰囲気を残していた。タクシーもコンビニもスカイトレインも地下鉄も定価販売も存在しなかったが、タイはまちがいなく経済的離陸の前段階にあった。

タイ語のニュースではJAL123便の事故の詳細はわからなかったのでもっぱら映像をみていた。ひどく破壊された機体の状況が延々と映し出され、少女が自衛隊員にしっかりと抱きかかえられてヘリに収容される映像が印象的だった。結局、私がこの事故の全貌を知ったのはその月の終わりに日本に戻ってからだった。

JAL123便の事故はさまざまな意味で航空機事故の悲惨を体現しているが、私はボイスレコーダーに記録されたパイロットとコパイロットの会話を聴くとき胸がつぶれる思いがする。彼らはそれまでの経験から搾り出したあらゆる操縦技術を駆使して、コントロール不能となった機体を実に30分以上も持ちこたえさせたのだ。
しかしやがて機長はこうつぶやく。
「これはだめかもわからんね」と。
その声の冷静さに旅客機のパイロットとしての矜持を感じたのは間違いだっただろうか。
それから更に10分の間、機体は飛び続けた。

(追記)
未確認だが、ボイスレコーダーは墜落直前の「もうだめだ」という叫びを記録しているという。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-08-12 07:34 | 日日
大平建築塾
d0059961_1521442.jpg信州の山の中に昔の宿場が今は無人となって残っている。
しかし人が住まなくなると家の傷みは早い。そこでそれらの家々を修繕し、修復して維持していこうという運動がある。
数十人、ときには百人以上の年齢も経歴もばらばらな人たちが毎年の夏に各地からやってくる。彼らは江戸末期に建てられたような古い家々に分かれて数日間寝泊りし、自炊しながら家を掃除したり修繕したりする。夜は酒盛りだ。
こういう集まりに参加した。

「年齢も経歴もばらばら」と書いたが、実際にはやはり建築関係のひとたちが多い。
設計事務所を経営しているとか、大学で建築を勉強しているとかだ。私はといえば、ようやく文化遺産の保存と修復といったキーワードで細く細く繋がっているにすぎない。
参加の印象は、結果からいえば決して悪いものではなかった。特に参加していた若者たちには強い印象を残したことだろう。
見知らぬ人たちとの共同生活にいきなり投げ込まれるのは貴重な体験になるはずだ。

私は若くないので強い印象を受けるところまではいかなかったが、そのかわり保存運動のひとつのケースとして、さらにはひとが集まってなにかを行う行動モデルのケースとして興味深く観察した。
村人がすべて離村してから長い時間が経過した無人の宿場を、血が流れ息を吹き返すまでに回復させるのは容易なことではない。そして最終的にはなぜ保存するのかという本質的な問題に行き当たる。
さらに私を驚かせたのは、これらの古い家々を修復するための、私には天文学的な数字に思える費用の大きさである。

個人的に思ったのは、保存運動モデルの開発という観点からの関わり方もあってもいいのではないかということだった。建築的な視点だけでなくさまざまな分野の専門家の参加も必要だ。行政の内部に身をおいたこともある私には、地元の行政とのコミュニケーションのありかたについても思うことがいくつかあった。私が関わるならば、それはネットワークメディアとリアルな活動を結びつけることしかない。
言うはたやすく、十年以上も活動しているひとたちにはこうした言葉はそれほど価値がないに違いないのだが。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-08-08 23:24 | 日日
ラジオ・エチオピア
恋愛小説をずっと読んでいなかった。
もともと嫌いなのだ。架空の恋愛物語に感情移入しても時間の無駄ではないか。
それがどういう風の吹き回しか、一冊の恋愛小説を読むことになった。きっかけは相変わらずの偶然で、本屋でたまたま目に付いたのはその奇妙なタイトルのせいに違いない。
「ラジオ・エチオピア」。
それがニューヨーク・パンクの女王と称されるパティ・スミスのセカンド・アルバムのタイトルあることを知らなかった私は単に奇妙な単語の組み合わせと音としての響きに興味を持ってその本を書棚から抜き出したのだが、数ページ読んだあと、その本が傑作であるかどうかは別にして最後まで読もうと決めていた。
著者は蓮見圭一という人物だが、覆面作家であって正体は不明であるらしい。

メディアはその登場の時点ですでに自らその行く末を暗示しているし、最初のユーザーの一群が利用技術のあらゆる可能性を検証しつくす。
ネットワーク・メディアの恩恵に負う恋愛はすでにパソコン通信の登場した時点で始まっていたし、そこでの恋愛はメディアの特性に色濃く影響を受けていた。メディア上での恋はメディアの実現するコミュニケーション速度によって加速され昂進する。メディアの作り出す相手の残像は直接脳髄に焼きこまれるかのようだ。
男と女が出会ってインモラルな恋が始まるとき、メディアは彼らの味方である。恋が高揚し持続するとき、メディアは彼らの後見人である。恋が破綻するとき、メディアは彼らの検察官であり死刑執行人である。

「ラジオ・エチオピア」を読みながら私は自分がネットワーク上でコミュニケーションを始めた頃を思い出す。それまで見たこともないメディアであるメールには輝きがあり、誘惑的で、ときとして背徳的でもあった。緑色に輝くCRTモニターの前で過ごしたいくつもの長い夜、メールはことばを輝かせ、ことばが道具で武器で、ことばの貧しい人間は生存できない過酷な世界が広がっていた。
無数の恋愛事件が起きていた。それらはときとしてメディアの力を借りて交錯し状況をさらに複雑にする。
その頃、私は「メディア・ラブ」というタイトルの短い物語を書いた。ネットワーク上で出会った男と女の話である。当時の私はあまりにもこの新しいメディアに中毒していたために、間違ってメディアを主人公にしてしまったのだった。

小説「ラジオ・エチオピア」の主役はメディアではないが、メディアの特性はいやおうなく彼らの恋愛のスタイルとプロセスに影を落とす。
家庭ごとに一台の黒い電話があった時代にはこの恋愛は存在しなかったが、むしろそれ以前、手紙だけが存在した時代には存在しえたかもしれない。コミュニケーションの速度に雲泥の差があるにせよ、書き言葉が恋愛の神となるという意味ではそれほどの違いはない。
電子メールの時代は歌垣が生きた時代の再現といえるのかもしれない。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-08-08 23:23 | ネットとデジモノ