<   2005年 11月 ( 16 )   > この月の画像一覧
紳士の反逆~ダンディズムについて~
d0059961_11211675.jpg巷ではダンディとかダンディズムとかいうことばをよく耳にする。
○○のダンディズムというような使い方をする。やくざのダンディズムとか、サラリーマンのダンディズムとか、ダンディズムということばをくっつければなんとか恰好がつくと考えられている。こういう表現は「かっこいい」とほぼ同義で、それほど意味を持っているわけではない。
ダンディズムというのは本来、19世紀イギリスの上流社会に生まれたあるライフスタイルを指すことばだった。
言葉自体は18世紀に生まれたとされるが、語源はフランス語の"dandin"(間抜け)、"dandipart"(ろくでなし)であるとか、さらにはサンスクリットで「杖」を意味するDANAであるとかいう薀蓄には今のところ論証するすべがない。
ダンディズムは狭義には英国の紳士のおしゃれの哲学であり、その本質は近代のもたらした物質主義による個人の疎外に精神で対抗しようとする懐古的な色彩に彩られた一種の自己崇拝である、という説明は納得できる。
ダンディズムを実践したとされる人物としては英国王ジョージ4世の友人であったジョージ・ブライアン・ブランメル、オスカー・ワイルド、バイロン、ボードレール、プーシキンといった人々の名前がよく挙げられる。いずれにしても凡人はお呼びではないようだ。
19世紀のイギリスという特定の時代、特定の地域に流行した比較的狭小なライフスタイルを指すダンディズムということばの意味がその後に信じられないくらい拡張され、普遍化していったわけだ。
私がイメージするダンディズムのキーワードを順不同で並べてみると、
1)枯れた自己愛(生々しくギラギラしていてはいけない。ある程度老成しなくては)。シニカルな自己陶酔。上品な色気。
2)基本的に自分を愛する姿勢。自分の生きかたを愛する姿勢といったほうがいいだろう。
3)生きる原理原則(思想、ファッション、ライフスタイル、交友、座談、趣味、行動様式などに関して)=自分なりの決め事を持つこと。それが抜きん出た水準に達していること。
4)抜きん出た技術、技能、能力を持ち、それを誇らないこと。
5)自己顕示的ではなく自己充足的であること。
6)独自の時代認識を持ち、それに対する批評的な(批判的、ではないことに注意)生き方を展開すること。
7)目利きであること。確かな批評眼を持つこと。
8)権力に対して反逆的ないしはおもねない。金権的でない。
9)群れない、迎合しない、追従しない。模倣しない、潔い、聡明、溺れない。
10)大衆に対する蔑視と失望。美意識に拠る価値観。知性と教養。
こうして並べてみると、こういう資質を持った奴が本当にいるのか、というような雰囲気だが、生き方のモデルを探求するのは悪いことではない。大義の失われた現代においてダンディズムの追求は個への撞着の一形態としてそれなりの意味を持ちうるだろう。
(写真はダンディズムの祖とされるジョージ・ブライアン・ブランメルの肖像)
[PR]
by hatano_naoki | 2005-11-30 11:17 | 日日
青色LEDの聖夜
d0059961_0392527.jpg駅前を通りかかると、クリスマスのイルミネーションが輝いている。
今年は青と白に輝くツリーが目立つような気がする。かつては豆電球の灯りだったが、今では光源はLEDである。つまり青い光は青色LEDの放つ光である。
青色LEDは実現が困難とされ、特許をめぐる発明者の中村修二氏と元の勤務先である日亜化学の係争が話題になった。2001年のことである。
最近ではLEDは生活のあらゆるところに使われている。中でも青色LEDの普及が目覚しく感じられる。青いLEDは時代の先端の色なのだ。

10数年前、こんな文章を書いたことがある。タイトルは「神々のLED」。



深夜である。
仕事の息が尽き、きょうはこれまでとワープロの火を落とし、あちこちの電源をオフにする。部屋の明かりを消して寝室に下りていく。これが毎日の繰り返しである。階段を下りがけに振り返るとひとつふたつの小さな赤い点が部屋のあちこちに見える。LEDの赤い色である。
仮に。部屋にひしめく電子機器の全ての火を落とさずに部屋の明かりを消してみたら?
電話、ワープロ、ファックス、パソコン、モデム。数えてみたことはないが仕事の部屋には数多くの電子機器がある。そのそれぞれに実に多くのLED表示が用いられている。色も様々である。赤、緑、黄。それらの色はユーザーであるわたしに機器の状態を伝えてくる。
LEDの色と数はいわば機械からの報告である。それらの報告を特に意識せずにしかし視野のどこかに置きながら仕事をし、思いにふける。都市の街路は情報に満ちているが部屋の中のLEDもそれに劣らず華やかで饒舌である。
これらの明かりはもしかすると部屋の中でひとりで仕事をするわたしにとっての雑踏であり都会の喧騒である。情報からの遮断は不安を増長する。LEDの明かりは過剰な情報がこの部屋にまで到達していることの象徴であり、ひとり部屋にこもってなにかを作り出そうとする者にとっての街路灯である。
部屋の明かりを消す。
窓の外を見ると新宿西口の高層ビル街区が見える。ビルの窓の大半は暗く、その輪郭が暗い空にうっすらと浮かび上がる。
ビル群にまぶされた星。
赤い明かりがいくつもいくつも点滅している。点滅しない明かりもある。そのあたりが星空のように見える。赤い星の集まった星雲のようである。
機器の火を入れたまま部屋の明かりを消してみる。
すると部屋の中に赤い星、緑の星が現れる。明滅しない蛍のようにも見える。掌の中の星である。
もう深夜。
機器の火を落とし部屋を明かりを消して階段を下りていくとわたしの部屋の赤い星の群は束の間の眠りにつく。
窓の外の星は明滅を続け、朝を迎え、また夜となり。



この文章は1992年か1993年に書かれた。当時はLEDは赤か緑(黄緑)か黄と相場が決まっていたのだ。
今やLEDは世の中にあふれて偽もののモミの木までも覆い、あまりにもまぶしくきらめく青い光で埋め尽くす。青い光は神秘的で聖夜にふさわしい。雑踏の中で静謐な雰囲気を醸し出し、なぜか聖夜を自分たちの恋のクライマックスだと思い込んでいる恋人たちをも明るませる。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-11-30 00:02 | 写真日記
沖縄勉強ノート(8)「沖縄の歴史と文化」(外間守善著)
d0059961_945545.jpg「沖縄の歴史と文化」(外間守善著)を読み始めた。
以下は、誤読や誤解をもふくむ私なりのまとめである。



沖縄といっても、安易にひとくくりにすることはできないようである。
奄美と沖縄本島を中心とする地域(中部圏)は縄文文化の強い影響を受けて形成されるが、しだいに土着化して独自の文化を作り出していった。
宮古・八重山地域(南部圏)には日本本土の縄文・弥生文化の影響は認められない。むしろ南方系要素の強い文化である。

「琉球」とは中国の史書に見える呼び名である。初出は1372年、明の太祖の時。面白いことに日本もこれに従って琉球と呼ぶようになる。
オキナワの初出はもっと古く、779年。やはり中国の史書に現れる。オキナワという音に沖縄という文字をあてただけのようである。土地に古くから存在したことばのようである。

琉球の統一は1429年、第一尚氏王朝時代のことである。交易を国家の基盤とし、首里を王都に、泊、那覇港を対外的な門戸とした。また帰化人を重用した。
第二尚氏王朝時代になると宮古・八重山を平定し、また旧来の信仰を再編し、明への朝貢を推進した。
宮古・八重山の平定は、日本の文化圏に属する沖縄本島と南方文化圏に属する宮古・八重山を政治的に統合したと見ることができる。

琉球は16世紀半ばまで中国や東南アジア、日本、朝鮮と中継貿易を行う独立した存在であったが、その後没落してゆく。
その理由は東南アジアへのヨーロッパ勢力の侵入による貿易拠点の消滅と、中国が冊封体制・海禁政策を転換し、自ら海外貿易に乗り出したことによる。

沖縄は日本の一部でありながら中央の政治的干渉を受けない地域だった。
しかし17世紀初頭、薩摩が干渉し、さらに武力で制圧するにいたる(1609年)。直接的な目的は琉球王国の経済的利権の収奪にあったが、背景には幕藩体制の伸長、薩摩の経済的窮乏があり、琉球の内部では中継貿易の衰退があった。
薩摩は武力制圧の後も王国を解体せず、中国との冊封体制を続けさせた。王国の傀儡化である。
これによって琉球は中・近世的社会の成熟の機会を失い、古代的なものを抱え込んだまま近代に強制的に移行することになる。

明治維新になると琉球国は琉球藩に、国王は琉球藩王となって統一国家に組み込まれる。台湾出兵によって沖縄は対外的にも日本の一部となり、さらに清国との冊封関係を断つことを余儀なくされる(琉球処分、明治12年)。

琉球処分の翌年、清国との交渉に際して、宮古・八重山を清国に譲る案が日本側から出された。辺境である沖縄に対するこうした見方、扱い方は現在にいたるまで続いていると見られる。



こうしてみると、沖縄が現在抱えている諸問題の多くが「薩摩入り」とその後の「琉球処分」に発していることを改めて感じるし、沖縄の魅力の一部である「露出した古代」の雰囲気が近代の喪失とセットになっていることにも思い当たる。
また私個人の感慨としては、沖縄とカンボジアの歴史的共通項にも思いあたるものがある。はざまに生き、大国と周辺国家の動きに翻弄される。

もうすこし読み進めたい。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-11-29 09:31 | 沖縄勉強ノート
SAYURI
d0059961_7585622.jpgもうすぐ公開される映画「SAYURI」は製作がスピルバーグで監督がロブ・マーシャル、完全なハリウッド映画だ。舞台は日本で主な登場人物が中国人と日本人、使われる言語が英語というのが、映画製作の現場ではこういうことが日常化しているにせよ、面白く感じられる。
昨日、この映画の公開に先立って日本人と中国人の俳優たちが記者会見が行い、その映像をテレビで見た。日本人は渡辺謙、役所公司、桃井かおり、工藤夕貴など。中国人はチャン・ツィイー、コン・リー、ミシェル・ヨー(マレーシア生まれ)などだった。俳優たちの間には親密な雰囲気があったように感じられたのだが、それは幻想だったのだろうか。
記者会見の映像を見ながら考えていたのは、中国という国家のことだった。
近年、中国の存在感が増してきている。おそらくそう遠くない未来には世界最大の経済力ともしかすると最強の軍備を持つ国家となって凋落傾向を強めていくアメリカと対峙するようになるかもしれない。
この隣人と付き合うのは容易なことではなさそうだ。
歴史的に見て中国の他国に対する基本的な姿勢は懐柔、恫喝、教導である。自国に恭順の意を表し、その傘の下に安住するものには危害を加えないが、自国が勢力圏と認識する範囲内にあって逆らおうとするものには容赦なく攻撃を加える。
中国は主人であり教師である。周辺国家は主人に従い、教えを請わなくてはならない。周辺国家は中国にとって領土ではないが自分の自由になる領域である。
こういう隣人がすぐ近くで日々強力になってゆく。私の感じる不安は生半可ではない。
ある中国人に「日本人は中国を怖がっている」と言ってみたことがある。すると日本をよく知る彼は「中国人も日本が怖い」という。日本が軍事力を増強し、大人の国家としてひとり立ちするのが怖いのだ。
国家としての中国と個人としての中国人の間には大きな乖離がある。国家と個人というのは、普遍的にそうなのだろう。
映画「SAYURI」で主役の芸者SAYURIを演じる中国人女優チャン・ツィイーには、たとえば同じ日に日本で記者会見を行ったアンジェリーナ・ジョリーにはない魅力が感じられた。記者会見の壇上で日本人と中国人が談笑する。実に自然な光景だ。中国は強くて優しい隣人なのかもしれない。そういう幻想が一瞬きらめく。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-11-29 07:42 | 日日
WX310K
d0059961_11115813.jpgWILLCOMの新端末、WX310Kを使いはじめた。
発売当日の朝、機種変更で手に入れたWX310Kは前のモデルであるAH-K3001Vを1年半使い続けた私としてはそこそこ満足できる新機種だった。
そこそこといったのは、失望した点もいくつかあったからだ。
きょう体が安っぽくてできが悪い。かなり大きくなったし、開閉ひんじが甘い感じだ。日常持ち歩く機械として、こうしたハード面の欠点はかなり気になる。
一方、機能面はほぼ満足だ。画面はわずか0.2インチ大きくなったが、ずいぶん見やすい感じ。メモリーカードが使えるのも楽だ。Operaブラウザは128Kへの高速化の恩恵でまあまあスムーズに動作するし、内蔵カメラも実用的になった。ムービーの絵もきれいだ。ただしWord/Excel/PowerPoint/pdfなどのビューワーはときとしてちょっと実用にならないくらい遅い。
新機種を使い始めての変化は、Operaを以前よりも頻繁に実用的な気分で使いはじめたこと、内蔵カメラをおもちゃとしてではなく、デジタルカメラとして意識していて、実際に撮影もしていること、大容量の外部メモリを活かして(512MBを入れた)USBメモリとしても活用しようとしていること。
画面の大きさと外部メモリの恩恵でフォトアルバムとしても使えそうだし、今後は音楽プレーヤーとしても使っていくつもりだ。
ようするに、外出時の音声系・データ系のコミュニケーションと、持ち歩きデータの格納をこれひとつに集約できそうだ。唯一の不満はある程度長い文章を入力する機械としては不十分だということで、外で小さい機械で書きたいという願望はいまだに実現されていない。
この機械からblogを更新したり、この機械だけで写真を撮るといった試みが、もっとも身近で現実的な「夢」ということになりそうだ。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-11-28 08:08 | ネットとデジモノ
再会
mixiというネットワーク・コミュニティがある。
いわゆるSNS(ソーシャル・ネットワーク)と呼ばれる自称閉鎖型サービスで、なにが閉鎖型かと思うのだが、いちおうそういうしくみになっている。
かつてのパソコン通信時代、ニフティのフォーラムという閉鎖型のコミュニケーションのしくみの中で長いながい時間を費やした。電子会議、チャット、掲示板などを組み合わせたもので、基本的に文字だけでコミュニケーションした。インターネットはかげもかたちもなく、電子メールが新鮮だった時代のはなしである。
それからインターネットの時代になり、パソコン通信はすたれてひとびとはインターネットの荒野にちりじりになった。
mixiもまたある種の荒野であって、かつて感じたネット上でひとと知り合う興奮や高揚はもうないが、このやっと百万人規模の電子空間で、ひとのつながりをたどって昔の知り合いの存在を知る機会が増えた。これはちょっと奇妙な体験だ。みな年齢を重ね、その境遇にもさまざまな変化が起きている。気の遠くなるような遠近感を感じることもある。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-11-23 23:39 | ネットとデジモノ
沖縄勉強ノート(7)「ティンク・ティンク」と「あじまぁのウタ」
d0059961_1937342.jpgd0059961_19372320.jpg「ティンク・ティンク」と「あじまぁのウタ」のDVD版をたてつづけに見た。
「ティンク・ティンク」はりんけんバンドのリーダー、照屋林賢の原案・監督による映像作品(1994年)。「ティンク・ティンク」ということばは沖縄で三線(さんしん)の響きを表す際の擬声語であり、また幼児をあやす時に言う言葉でもあるという。照屋林賢(てるや・りんけん)は1952年、沖縄県コザ生まれ。祖父は照屋林山、父は照屋林助(愛称てるりん)。1977年、りんけんバンドを結成している。
「ティンク・ティンク」にはりんけんバンドのライブ映像と沖縄の風物を描いた映像が交互に現れる。りんけんバンドの名前は知っていたが曲を聴いたことがなく、ほとんど知識も持ち合わせなかった私は、ライブ映像からちょっとした衝撃を受けていた。沖縄のリズム、ことばの響き、その衣装、どれもがめずらしくて迫力があった。力強さと生活の喜びのようなものが感じられる。これはおそらく私が聴いてきた日本のポップスからは感じられなかった要素だ。
この映画の主人公は上原知子(と、林賢自身)らしく、映画自体が林賢の妻へのオマージュであるとも感じられる。
「あじまぁのウタ」は青山真治監督作品(2002年)。
「あじまぁ」とは糸満方言で「交差する」「交わる」というような意味だという。
りんけんバンドのリーダーである照屋林賢と妻である上原知子が主要な登場人物であり、上原知子のライブ映像がふんだんに盛り込まれている。上原知子は沖縄県糸満生まれ。6歳でファミリーバンド「糸満ヤカラーズ」のメンバーとなり、大衆芸能の世界で生きてきたが、1988年に脱退してりんけんバンドに参加した。
上原知子はちょっとシャーマン的なところがあって、普段の気さくな雰囲気が唄うときにはがらりと変わる。唄の神様がのり移るかのようだ。そうした印象には彼女の舞台上のトレードマークである紅型(びんがた)も大きく影響しているに違いない。そういえば紅型のこともよく知らなかったので調べてみると、紅型とは沖縄伝統の染物で、その始まりは14、5世紀。その後中国の型紙、インドやジャワの更紗、日本の友禅などの影響を受けつつ現在の姿となったといわれている。沖縄の地理的な位置と歴史的な背景を負った産物であるわけだ。
これらの映像作品は確実に、濃密な沖縄を感じさせた。
では沖縄とはなにかと考えてみると、青い空と海、亜熱帯の樹木、ゆったりと暮らす人々、独特のことばと食生活というエキゾチックなイメージがある一方で、薩摩の圧政に苦しみ、国内で唯一の地上戦を経験して多くの戦死者を出し、今も米軍が広大な土地を占有しているといった負のイメージが去来する。虐げられたものの強さと明るさを感じる。さまざまな意味で象徴的、黙示的な存在であると私は思う。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-11-23 18:43 | 沖縄勉強ノート
沖縄勉強ノート(6)なぜ沖縄か?
なぜ沖縄なのか?
ひとことでいえば、そこに自分の興味を惹くものがごちゃごちゃと詰まっているように思える。
周辺地域とのかかわりの中で醸成された独自の文化、日本に収奪・搾取されてきた歴史と悲惨な地上戦、その結果としていまだに残る巨大基地群、豊かな芸能の世界、亜熱帯の風土。こうした要素にとってはその地理的な位置が重要な意味を持っている。
列挙してみるとあまりにステレオタイプなのに驚くが、今自分の興味の在りようはその通りなので致し方ない。こうした要素を並べるのとは別に沖縄に抱くイメージは、そこが根源的で黙示的な場所だということだ。では何が根源的で黙示的なのか?
古い信仰や感情が保存されている。さまざまな意味での抑圧を通じて、見て知ってしまった。はざまに存在し、強い力に動かされ傷つけられる。
沖縄を知っていく過程で、本質的ななにかに近づけるのではないか。おおざっぱに言えば、そういう感覚がある。
私たちの日常は感覚的であってなかなか事実や定義にまでたどりつけない。沖縄についていえば、たとえば地上戦とはなんだったか考えるとき、基礎的な数字や戦闘の推移、さらには太平洋戦争における沖縄戦の意味など、知るべきことはたくさんある。こうした「知る過程」をも書き綴りながら沖縄を知っていければ面白いと考えた。
沖縄を見る私の目はカンボジアの記憶を重ねている。これはまだ仮説に過ぎないけれども、カンボジアで得たものを沖縄を知ってゆく過程で生かせるのではないか?
[PR]
by hatano_naoki | 2005-11-23 13:24 | 沖縄勉強ノート
沖縄勉強ノート(5)伊江島と沖縄戦
d0059961_950545.jpgかつてある学校で教えていたとき、学生のひとりが沖縄の出身だった。実家は伊江島です、と歌手か役者志望だった巨漢の彼は言った。雑貨屋、やっているんです。それから彼は伊江島についていろいろと説明してくれたが、伊江島という島がどこにあるかも知らない私にはそれほどの興味もなく、会話は早々に途切れた。
その後、沖縄に行ったとき伊江島を遠望したことがある。きれいな海の上に意外な近さで浮かぶ平らな島だったが、小さくとがった山の姿が印象的だった。
伊江村ホームページでは島について次のように述べている。
「本部半島の北西約9キロメートル、東西8.4キロメートル、南北3キロメートル、周囲22.4キロメートルの位置にある伊江村は、北海岸は約60メートルの断崖絶壁、南海岸はほとんど砂浜で、島の中央よりやや東よりに、海抜172メートルの古生代チャートの城山がそびえ立っている。伊江村の平均気温、24.2度。降雨量、平成11年度は1,651mm。過去10年は1,867.2mmです。気候は温暖で、さとうきび、葉たばこ、花き、野菜、果樹、肉用牛、乳用牛等の産業が盛んである。」
付け加えれば現在の人口は5300人ほどで、島の3分の1は米軍用地である。
この島が沖縄戦における激戦地のひとつであったことを島の姿を見てからだいぶあとになって知った。沖縄戦史によると戦闘は1945年4月11日に島の南西部の海岸への米軍の上陸で始まり、4月21日にあのとがった山、城山(ぐすくやま)の陥落によって終結する。その間、日本軍は4700名以上の戦死者を出した。一方米軍の戦死者は170名ほどだった。米軍の上陸後、日本軍は切り込みなどで抵抗はしたものの、ほぼ一方的な戦いだったようである。
そういえば自分はどこまで沖縄戦のことを知っていたかと考え、戦線の推移を中心に沖縄の地上戦全体の経過について改めて調べてみた。
沖縄本島における地上戦闘は1945年4月1日、嘉手納海岸への米軍の上陸作戦によって始まった。このとき嘉手納に向かった上陸用舟艇は1千隻以上だったという。その後米軍は北上する部隊と南下する部隊に分かれて本島を制圧していった。上陸直後に米軍が占拠した本島中南部の軍事的拠点はその後現在のような恒久的な基地へと変貌することになる。6月23日に本島最南端に近い摩文仁で守備隊司令官牛島中将が自決し、本島における組織的地上戦が終結したとされるが、この日付にはあまり意味がないようである。その後も散発的戦闘が続いた。公式の戦闘終結日はない。
この間の死者数については諸説あるが、沖縄県の公式発表では住民戦没者94,000人、日本軍戦没者94,136人、米軍戦没者12,520人、合計戦没者200,656人となっている。
大田昌秀氏によると日本側正規軍(本土出身者)66,000人、地元で編成された防衛隊28,000人、地元で動員された協力者55,000人、一般住民95,000人となっている。県民の死者は18万人近い。当時の県人口約49万人の3人にひとりが死んだことになる。米側の死者は米国の戦史によれば12,000人だった。
信頼できる数字がないのは、信頼できる調査が行われていないからだ。沖縄戦はきちんと総括されていないということになる。
日本軍は沖縄という島を本土防衛の楯としたばかりでなく住民の肉体をも楯とした。日本軍の住民にたいする仕打ちのひどさについてはすでに様々な記録が残されているが、ステレオタイプな批判をしないで本質に迫れないものか?たとえば沖縄戦をジェノサイドとしてらえてみたらどうか。もちろん沖縄の地上戦はジェノサイドということばの定義するものとは違うが、民間人がふたつの国の軍隊から事実上の虐殺に追いやられたという事実は残る。
そうして、結局私の手に中にのこる疑問と課題。沖縄とはなにか?
(写真は本部半島側から望む伊江島)
[PR]
by hatano_naoki | 2005-11-21 20:44 | 沖縄勉強ノート
沖縄勉強ノート(4)キャンプ・キンザー
d0059961_23583782.jpg那覇から国道58号線を北上して浦添市に入ると、道路の西側(つまり左側)に延々とフェンスが延びているのに気づく。米軍施設であるのは間違いない。私はタクシーのドライバーに、ずいぶん大きな施設ですね、と話しかける。「キャンプ・キンザー。」ちょっと颯爽と聴こえるドライバーの発音にドキッとする。
キャンプ・キンザーは広さ274ヘクタール。58号線沿いのフェンスの長さはおよそ3キロメートルもある。隣接する那覇軍港港湾施設と一体化した米海兵隊の後方支援基地である。
キャンプ・キンザーについて米海兵隊の日本語版ウェブサイトには次のように書かれている。
「キャンプ・キンザーは第二次世界大戦中、沖縄戦で死後名誉勲章を受章したエルバート・L・キンザー先任伍長にちなんで命名されました。同施設は沖縄の南西にある海岸線に位置し、かつては牧港補給地域として知られていました。 同施設は一部地域を浦添市に囲まれ、浦添市は那覇市と宜野湾市の境界で、本島内で最も人口が多い地域です。」
基地の名の元となったエルバート・L・キンザー(Sergeant Elbert Luther Kinser)は1922年テネシー州生まれ。1945年4月1日に沖縄に上陸し、5月4日に戦死した。日本軍の手投げ弾による攻撃から身を挺して部下を守ったのだという。交通量の多い国道沿いのフェンスのすぐ向こうにある異国であるキャンプ・キンザーとは、米軍にとって沖縄という戦場で戦死した自己犠牲的な英雄を記念する名称なのである。
米海兵隊のウェブサイトを見ると、沖縄の基地群が米国の世界戦略の中に明確な位置づけと目的を持って維持されていること、その視点の広がりや価値観が沖縄の人々や「内地」に住む我々とはまったく異なるものであることを改めて思い知らされる。そこには沖縄という地域性がまったく無視され殺された上で、自らの覇権と敵との対峙のみを至上命題として組み立てられた世界が広がっている。
沖縄という島、そこに住む人々と彼らの社会や文化、土地に根ざした記憶の上に別の層である巨大な基地群が覆いかぶさって存在しつづけている。ふたつの層は融合することはなく、まったく別の価値観、時間軸、空間軸に拠っている。沖縄とは決して理解しあうことのない二つの層が不可分なかたちで結びついている現場だ。
(写真はエルバート・L・キンザー)

2006年03月13日の追記。
2006年03月13日の朝日新聞によると、「外務・防衛審議官級協議で、沖縄県中南部の那覇港湾施設(那覇市)、牧港補給地区(浦添市)、キャンプ桑江(北谷町)の3施設を日本側に全面返還することを確認した。」という。
記事
ここでいう牧港補給地区とはキャンプ・キンザーのことである。この「確認」の意味は、反対の強い普天間基地の辺野古移設を念頭に3ヵ所の返還がパッケージになっているということだろう。また牧港補給地区の機能は廃止されるのではなく県内の別の場所に移設されるだけである。
[PR]
by hatano_naoki | 2005-11-20 00:39 | 沖縄勉強ノート