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桜、満開
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by hatano_naoki | 2006-03-31 15:46 | 写真日記
沖縄勉強ノート(60)伊波普猷著「古琉球」
d0059961_14251973.jpg伊波普猷著「古琉球」岩波文庫版を読み始めた。
雑誌や新聞で発表された文章を集めたもので、普猷の代表作とみなされている。古琉球ということばとその定義自体、普猷が作り出したものだという。その定義は具体的には農耕社会の成立(12世紀頃)から島津藩の侵入(1609年)までの約500年間を指す。
まず「浦添考」「島尻といえる名称」「琉球における倭寇の資料」の3編を読んだ。いずれも短い論考で読みやすかった。
巻末に付された外間守善氏の解説によると「古琉球」は普猷の処女出版であり、初版は明治44年。沖縄公論社から出版された。外間の解説によると、「古琉球」にはその後普猷が生涯持ち続ける命題の萌芽が見られるという。その核心は沖縄民族の南下説であり、柳田国男の日本民族北上説と対立するものだった。また「おもろさうし」研究が普猷の研究活動の基礎であったことも指摘されている。
「古琉球」は歴史的な書物であって当然のごとく書かれた時代を背負っている。
内容から見れば現時点では批判されるべきことも多いが名著であることは間違いない・・・本書を紹介するときこういう言い方がされることが少なくないようだ。
普猷に対する批判は、沖縄人の祖先は九州から南下した人々であるというその主張が島津支配以降に唱えられた日琉同祖論の亜流であるとか、ようするに日本におもね擦り寄るものだとかというものだった。
普猷はその学問を通じて沖縄のアイデンティティを確立することに腐心したが、その背景には直接的には琉球処分に起因する沖縄人の自信喪失、アイデンティティ・クライシスがあった。
このような民族の危機に直面したとき、知識人の果たすべき役割はとても大きいはずだ。普猷は学者であると同時に啓蒙家でもあったが、晩年には学究の道に専念するようになる。その背景には啓蒙活動における挫折感があったという。
このようなことを書くのは、大きく脱線してしまうが、私が現代カンボジアの状況とそこに生きる知識人の運命を想起しているからだ。
故国喪失の危機に直面したとき、本質的に寄るべきものは民族の歴史である。知識人の出番だ。そのとき国を思う知識人がどのような働きをしたかは歴史に記録されるし、少なくともひとびとの記憶に残る。危機に出会うとメッキかどうかが分かってしまう。
普猷以外に沖縄のアイデンティティの確立に影響を与えた人物の系譜をたどってみたいものだ。
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by hatano_naoki | 2006-03-29 20:39 | 沖縄勉強ノート
さよならの向こう側
d0059961_17203346.jpg三十代半ばで会社を辞めたとき、どこか海外に行こうと思った。航空券の手配がおそかったので最初に行こうと思っていた東アフリカが無理だとわかり、結局タイからマレー半島を下り、最終的にチモールまで行くプランを立てた。
この旅で訪れた最初の国であるタイで私の身にある出来事が起きた。そのために1ヶ月で旅を打ち切った私はタイから南下するのをあきらめ、香港経由で帰国することにした。
香港では九龍公園近くの日本人がもぐりで経営しているらしい安宿に泊まった。看板さえなく、暗い階段を上った奥の狭い部屋で、カーテンでいくつかに仕切ったドミトリーだった。
香港には数日間いた。スターフェリーに乗ったり、あてもなく町を歩いたりした。
タイで起きた出来事を思い出していた。それは事件だったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。命を絶たれる寸前だったかといえばそうではないが、私にこびりついた恐怖はそう簡単には洗い落とすことはできないように見えた。
香港を発つ日、飛行機に乗るために、まだ真っ暗な時刻に宿を出なければならなかった。おそらく午前4時とかそんな頃だ。
タクシーを止めて「カイタク・エアポート(啓徳空港)」と行き先を告げた。
「イエス、プリーズ」とドライバーが言った。
後部座席に身を沈めると車は静かに動き出し、やがてほぼ無人の街路を走りはじめた。そのとき、ラジオから山口百恵の「さよならの向こう側」が流れてきた。
だれもいない真っ暗な香港の街路を街路灯が点々と照らしている。車から見る光景はまるで映画のスクリーンのようで、歌がまるで町全体に響いているかのように思われた。
「一億人の(ための)娼婦」とはプロデューサー酒井政利の表現であり、「時代と寝た女」は作詞家阿久悠が語ったことばだという。偶然だったのだろうか、いずれも性とかかわりのあることばによって、幻想としての百恵のイメージの中にある猥雑さ、百恵そのひとと時代との関係を表現していた。
デビュー当時それほどうまいとも思えなかった百恵の歌唱は確実によくなってゆき、それとともに容貌にも一瞬のすごみを感じさせる美しさが加わっていった。
「さよならの向こう側」は1980年、百恵が引退コンサートで最後に歌った曲である。彼女がこの唄を歌い終えて舞台にマイクを置くシーンは私も記憶している。
それから5年後、私は啓徳空港に向かうタクシーの中でこの唄を聴いていた。唄がやさしく私に触れていた。"死地"から生還した私を抱きとめ、癒し、次の生に導いていく歌声。たぶん私は半ば放心状態でこの唄に身をゆだねていたに違いない。

「さよならの向う側」歌詞

(写真:香港の衛星写真 Google Earthより。上が九竜半島、下が香港島。中央に見えるのが旧啓徳空港。)
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by hatano_naoki | 2006-03-29 19:33 | 歌が私を・・・
沖縄勉強ノート(59)わしたショップ
d0059961_19521140.jpg銀座わしたショップにはときどき行く。
よくある県の物産のアンテナショップではなく、実際に売り上げを取ろうという意欲が感じられるのがいい。沖縄が東京に築いた橋頭堡だ。
店に入ると他県のアンテナショップに入ったのとはまったく違った雰囲気を感じる。店が生きている。店内は"異国情緒"がことさら協調されているわけではなく、むしろ抑制されているように思うけれども、それでも濃密な沖縄がモノを通じて伝わってくる。
観光客にとっての沖縄そのものであるさまざまな物産に加えて、じゅーしーのにぎりめしとかブルーシールのアイスとかがあり、沖縄産の野菜さえ買うことができる。私の好物の島らっきょうもある。三線とか泡盛とか琉球ガラスとかもあるし、沖縄の伝統芸能から島唄POPSまでのCDやDVD、書籍もある。国際通りの店よりは小さいが、それでも文化の出店であるという雰囲気がある。ときどきは新人歌手の店頭ミニライブなども行われている。
店に来る客には沖縄県人らしきひとや沖縄料理店から仕入れにきたに違いないという買い方をするひともいる。
昔、パリで私が逗留していた安宿のそばに日本食品店があった。何ヶ月か日本食を食べない生活をしたあとでその店に入ったとき、こそばゆいような奇妙な感覚に襲われたことを覚えている。うれしくはあったが、日本ではあまりにも日常的なモノに異郷で出会う違和感が強かった。そのときは賞味期限の切れた漬物を買い、部屋で食べた。
東京では沖縄固有の食品を売る店は多くはない。東京の沖縄人は故郷の食品がぎっしりと並んだ陳列棚の前でなにを思うのだろうか。
経営は株式会社沖縄県物産公社。ウェブサイトによると沖縄県物産公社は平成5年設立、社長は当時の知事・大田昌秀だった。翌年には銀座にわしたショップを出している。現在の従業員数は200名とちょっと、売り上げは85億円くらい。わしたショップは公社の店舗部門だが、同じわしたショップでも直営店舗とフランチャイジーがあるらしい。
現在の経営陣を見ると社長は副知事だが取締役にはオリオンビール、沖縄銀行、沖縄電力、県の商工会や工業連合会といった組織から出たひとびとが顔をそろえている。
私個人の銀座わしたショップに対する評価は良好だ。最初に書いたように活気が感じられる。しかしそのほかの店舗については、おそらく活気がそれほどあるとは思えず、それが売り上げにも影響しているのではないかと思う。
ちなみにわしたとは「わたしたち」という意味だという。

沖縄県物産公社ウェブサイト
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by hatano_naoki | 2006-03-27 21:14 | 沖縄勉強ノート
シニア向けウェブサービスは成功するか
最近、シニア向けのウェブサービスが立ち上がりつつあるという。
退職の時期を迎える団塊世代を狙ったマーケティングであることは明白だ。具体的には50歳あたりを境に、その上の世代のニーズに対応したサービスを展開するようだが、ネットでの老後相談とかお墓探しのサイトとか、こういうのが"シニアのニーズ"なのだろうかと、はてなマークが7つくらい点灯してしまう。
団塊というそれなりの巨大マーケットをなんとかしたいというのがそもそもの発想で、次にニーズをあれこれ想像し、掘り起こそうとしているのだろう。
こういう努力はビジネスとしては当然だと思うし、それなりに成功するかもしれない。しかしまず個人的な思いとして、なによりも直感として、かなりばかばかしい発想であり展開だと思ってしまう。
私個人の感覚としては"シニアポータル"にいって同じ年代の職のない仲間を探したり、墓地を物色したり、遺言状の書き方を調べたり、生前贈与のやりかたや親族間のトラブルの解決方法を学んだり、安楽死は是か非かという大議論に参戦したり、老人に向いた料理を提供するレストラン情報を検索したりはしたくない。
"シニアポータル"に自力で行き着けるひとはそもそも"シニアポータル"を必要としない。"シニアポータル"を必要とするひとは"シニアポータル"に行き着けない。PCやネットのスキルの個人差はどの世代にも存在するが、高齢者の場合はこれがかなり極端に現れるはずだ。
そもそもポータルという存在自体が時代おくれであって、Googleさえあれば十分だというのが私の感覚だが、さてどうなるだろうか。
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by hatano_naoki | 2006-03-27 20:16 | ネットとデジモノ
JR神田駅界隈
鉄の構造物は19世紀的な雰囲気がなかなかいい。トラスの重量感はもはやアートになりつつある。

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神田駅付近の線路はレンガ壁の高架になっている。その上部にちょっとした装飾があるのに気がついた。

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by hatano_naoki | 2006-03-27 19:44 | 写真日記
沖縄勉強ノート(58)ジャズ歌手 与世山澄子
d0059961_23374688.jpg那覇在住のジャズ歌手、与世山澄子を知ったのは5分前、テレビ番組「情熱大陸」で彼女をとりあげていたからだ。
1940年年2月16日、小浜島生まれ。
1955年、高校1年生の時に米軍基地内のクラブでジャズボーカリストとしてデビューし、1972年の復帰まで米軍基地のクラブで歌う。本土復帰後、夫でサックス奏者の我那覇文正とジャズスポット「インタリュード」を那覇にオープン。
1983年、ファーストアルバム"INTRODUCING"。翌年ビリーホリデーのピアノ奏者マル・ウォルドロンとの共作"With Mal"。1985年には3rdアルバム、"DUO"を発表。2005年、20年ぶりにアルバム「インタリュード」をリリース。
タワーレコードのウェブサイトでは彼女を「日本がアメリカに対してまだ大きな夢を抱いていた頃、ジャズはこんなにも官能的で美しく、また切ないものだった。ノスタルジーではなく、50年代特有の匂いを持ち続ける稀有な沖縄のシンガー」と賞賛していた。
そう、基地とジャズの時代は日本本土にもあったし、そこから多くの歌手が育っていった。その意味では日本の戦後にとって与世山のような存在は珍しくない。
たとえば演歌で売り出した松尾和子を思い出す。与世山より5歳ほど年長で、アメリカの兵隊相手にジャズを唄っていたが、やがてジャズを捨てて、より正確には捨てさせられて、スターの座を目指していった。
彼女が客としてきた青山のロブロイでジャズを歌うのを聴く幸運にめぐまれたのは1974年頃のことだ。その夜は彼女のバックバンドが出演していたので寄ってみたのだろう。いくらか酔っていた彼女は一緒に来ていた男たちに「私はジャズが歌いたいの」と繰り返し言っていた。
与世山が米軍基地に出入りするようになった1950年代初頭は朝鮮戦争が終わったばかりで、一方ではインドシナ半島でフランスとホーチミンの率いる抵抗勢力との戦闘が拡大していた。
基地内でデビューした1955年は大統領選挙でゴ・ジンジェムが当選し、ベトナム共和国が成立した年である。南ベトナム解放民族戦線の結成は1960年、南北爆の開始は1965年。
この間、沖縄の基地はアジアでの戦争と直接的にかかわったし、与世山の唄を聴いた兵士たちはこれらの戦争と沖縄との間を行き来していたはずだ。
番組の中での彼女は、少なくとも言葉としては反戦や厭戦を語ることはなく、むしろ生身の人間としての米兵を懐かしんでいるようだった。これもまた沖縄の一面だと思うし、その時代が彼女の中にいまだに息づいている。「アメリカが好きか」と聞かれたら、おそらく「ジャズが好き」と彼女は答えるだろう。
歌い手は風貌も大事だ。彼女の年齢と風貌は古典的なジャズ歌手のイメージにふさわしいと思うし、聴き手にじっくりと聴こうと思わせるスイッチの役割を果たしている。
今度那覇にいったらジャズバー「インタリュード」を探し出し、渋い唄声を聴きにいかねばならない。

与世山澄子に関するコラム(bounce.com)。文:田辺有朋
Tuff Beatsの記事
インペリアルレコードの紹介ページ
タワーレコードの紹介ページ
ブログ「箆柄日記」の記事
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by hatano_naoki | 2006-03-26 23:33 | 沖縄勉強ノート
見えるラジオの終焉
d0059961_15265058.jpg我が家の"電子機器の墓場"をがさごそとかき回していたら、"見えるラジオ"(FM文字多重放送対応端末)を発見した。きれいに掃除して電池を入れるとなんの問題もなく動作するのでうれしくなった。
"見えるラジオ"のサービスが始まったのはたしか1995年ころだった。簡便で実用的なメディアとして面白いと思い、対応するラジオを買っていつも持ち歩いていた。
1995年7月ころ、私はある雑誌にこんなコラムを書いた。

***

「見えるラジオ」の奇妙な体験

 最近発売された「見えるラジオ」に秋葉原の店頭で出会った。
 「見えるラジオ」はFMの電波の隙間を利用した文字放送である。文字情報はメニューから選択して表示させる。一件あたりの文字量は三十文字。情報量から来る印象は新幹線の車中で表示されるニュースに似ていて、全体としての情報量もたいしたことはない。だがラジオが「見える」というのは思いのほか新鮮な驚きがあった。簡単な操作で少量の情報を入手するというそのコンセプトはパソコン通信の対極にあり、文字情報のみであるという点でテレビと対峙する。「古いメディア」であるラジオの変態(メタモルフォーゼ)の始まりなのだろうか。
 まず、どちらかというとホットなメディアであるラジオがクールなメディアとして感じられた。「見えるラジオ」ではニュースの時刻に合わせて聞く必要はない。これは単方向で情報を送り出すラジオにとってはもしかすると革命的な出来事だ。いつでも文字情報が引き出せるその感覚は小さなデータベースにアクセスするのに似ている。情報量が少ないからその内容は言わばその日のニュースのベストテン、あるいはニュースの目次みたいなものだが世の中の動きのあらましを知るには十分だ。
 「見えるラジオ」とは情報ブロイラー的存在としての現代人に対する批評であると言うこともできる。詳細が分からないというのが一種の刺激だ。私たちは子細すぎる情報を日々流し込まれている。最近のマスメディアは事件をショーアップし感情を込め、一種の情報のイベントとして扱う傾向をより強めている。品のない見物人がそのような傾向を支えているが、彼らの顔のひとつは私のものだ。どのマスメディアにもうんざりしているが、テレビを消さないし新聞の講読を止めない。それらの情報の刺激が断たれるのが不安だからそのままにしているだけのことで、積極的に探そう、受信しようとしているわけではない。そして更に強いもっと多量の刺激が欲しくなる。「見えるラジオ」にはそのようなライフスタイルを断つような効果があるかも知れない。私が秋葉原の街角で「見えるラジオ」から最初に得た情報は横浜での異臭騒ぎのニュースだったが、少ない情報量が事件の異様さを際立たせていた。
 馴染みあるラジオという機械が情報端末になる。手に馴染んだ器に新しい酒を盛るのは手慣れた手法ではあるが、あなどりがたい。「見えるラジオ」の延長上には腕時計型のポケベルがあり、誰にでも扱える情報端末のイメージがある。一方で現在のパソコン通信は栓を開ければ出てくる水道ではなく、水道ではなく水を汲みに行く井戸だ。情報との関わりはより自覚的・能動的だが、大量の情報にまみれること自体がが一種の快感で、そのことが目的化する危険をはらむ。必要な機材、技術、知識などから来るパソコン通信特有の敷居の高さもまだ存在する。それは阪神大震災の被災者やボランティア活動に参加した人たちが痛感したところでもある。
 それまで見たこともない軽量小型のヘッドフォンを付け、ウォークマンを聞きながら町を歩くことは第一号機が発売された三日後にはかなり人目を意識する行為だった。今ラジオを「読む」のも同様に奇妙な光景ではある。だがウォークマンがライフスタイルになったと同じように、電車の中でじっとラジオに見入る人を誰も気にしない時代がすぐそこに来ているということらしい。

***

しかしサービスはそれほど普及しなかったようだ。携帯電話が進化して文字情報ばかりかラジオまでも飲み込んでしまった。現在はFM文字多重放送対応ラジオの販売は終了しており、対応端末は一部のカーナビだけになっている。サービスとしての役割を終えたということだろう。
そして結局、個人の必要な情報はそのほとんどが携帯に集約されつつある。
それにしてもメディアの盛衰ははやい。
今日一日、回顧的な気分で見えるラジオを持ち歩いてみた。文字情報がプッシュ型であることが便利だが情報量が圧倒的に少ない。ニュースでいえば30件弱が繰り返されるだけだ。一方、番組と連動した情報は、かかっている曲名を教えてくれたりとなかなか面白い。こうしたサービスはワンセグでも行われるだろうが、マイナーなメディアで試行錯誤を積み重ねたひとびとが過去にいたのだ。
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by hatano_naoki | 2006-03-26 16:14 | ネットとデジモノ
eneloop
d0059961_15261276.jpgeneloopを買ってきた。
単3と単4、それに充電器。以前から関心のあった製品だ。
eneloopはいわゆる"環境にやさしい"製品のひとつだが、そのコンセプトはなかなか志が高い。
乾電池を機関銃弾のように消費する生活には耐えられないと思っている消費者は少なくないはずだが、ニッケル水素充電池を使おうとしても不便な点が多いと感じて敬遠する傾向があった。私もニッケル水素充電池に移行したことがあったけれども、リチウムイオンバッテリーの特性になれた身にはどうもなじめなかった。
その点、eneloopは理想的に思える。ニッケル水素充電池ではあるがこれまでの欠点を克服して継ぎ足し充電が可能となり、放電しにくい。これで乾電池を大量消費する罪悪感から逃れられるかもしれない。
インターネット上ではいまのところ欠点らしい欠点は報告されていないようである。まずは使ってみることにしよう。

SANYOのeneloopのページ
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by hatano_naoki | 2006-03-26 15:26 | ネットとデジモノ
学術論文の電子化、ネット公開、そして・・・
asahi.comに科学技術振興機構が日本の学術雑誌を過去にさかのぼって電子化し、27日からインターネットで公開するという記事があった。湯川秀樹と朝永振一郎のノーベル賞受賞対象となった論文なども見られるそうだ。論文数は当初約3万で、戦前のものが中心だという。
これは実にすばらしいことだ。
私の知るごく狭い範囲の学問の世界でも、知の共有というものが実際にはいかにむずかしいかを感じる。大変な手間をかけて書かれた論文は学会誌とかごく小部数の出版によってひとにぎりの専門家の手に渡るにすぎない。皮相な見方をすれば知の独占が図られているとさえ感じられる。論文というものが知の公共財であるのなら、基本的に対価なしに流通させることが望ましい。
私はいくつかの博士論文・修士論文を入手する機会に恵まれたが、それは幸運にも論文の著者を知ることができたからで、そうでなければ手に入らない可能性が高かった。
論文は基本的に難解なものだが、市販本とちがって売れることを意図しない知的生産であって、その使命は真実に迫ることだ。よい論文には知的スリルがある。
論文の流通にインターネットは理想的である。仮に論文にできるだけわかりやすい解説と評価が付け加えられるなら、学術的な利用は当然のこととして、新しい読書体験を提供するに違いない。いまはやりの"ロングテール"ビジネスには恰好の資源となるだろう。
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by hatano_naoki | 2006-03-25 18:20 | ネットとデジモノ