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記事「チェルノブイリ!」の残響
d0059961_6462632.jpg先日書いたチェルノブイリ原発に関する記事に関連して、一通のメールを受け取った。了解をいただいたので以下に全文を掲載する。

初めまして、このたびhatano_naokiさんのチェルノブイリの記事を拝見させていただきメールさせていただきました***と申します(偶然にも同じお名前なので驚きました)。
私は今年で20歳になるごく普通の学生です。

あるときふと思い立って、私が生まれた年にはどんなこと起こっていたのか調べていると、チェルノブイリ原発事故に目が向きました。
もともと天災ではなく、人災と言いますか、人間が作り出したものによる事故などには非常に興味があり、軽く調べてみることにしたのです。
化学的な専門知識は皆無なので、爆発原因などを読んでもいまいち理解できないのですが、事故現場の写真やエレナさんのサイトを見ると、hatanoさんと同じく「ここは一度見ておかなければいけない」という強い衝動に駆られました。
私も正に、hatanoさんがBlogに書かれていた「ここもまた根源的で黙示的な世界の場所のひとつであるからだ。」という理由から、見に行きたいと強く感じます。
チェルノブイリ原発や、被害地から放たれる猛烈なオーラのような「何か」を画面からでも十二分に感じます。

第2石棺の建設が2010年完成予定となっている今、新石棺完成前に見ずしていつ見るのか?(あの現石棺の生々しい人為的恐怖感を心に刻んでおきたいのです)と自分に言い聞かせています。
ウクライナのツアーなどを軽く調べてみましたが、もちろん見学ツアーなどあるはずもなく、どうしたものかと考えています。

ただ、やはり自分の心の中に「見に行きたいけれど、現状では個人レベルで見に行ける場所ではない」という気持ちがあり、その気持ちが私の考えを楽天的にさせているような気がします。
つまり、見に行きたいと言っておきながら、もしも仮に見に行けるということになったら、現実的な恐怖感などで見に行きたいという気持ちが果たして持続できるかということです。
ある意味見に行けないと分かっているからこそ、見に行きたい見に行きたいと叫べるのであって、現実問題となるとどうなのか?というわけなのです。
まぁそうは言っても、今現在は見に行きたいことには変わりはありません。

今回は偶然にも全く同じような動機で見に行きたいという文面を見つけたのでメールさせていただきました。
チェルノブイリに行ってみたいということを友人に話したところ、「そんなこと思っている人はいるのか?」と言われたので、なおさらメールせずにはいられませんでした。
このメールをhatanoさんにお出ししたことで何がどうと言うわけではないのですが、同じ気持ちを持った人間がここにいるということを心の片隅にでも置いていただければ幸いです。

まとまりのない文章ですが、長々と失礼致しました。
それでは。


メールを読んだ私は一瞬、いくつかの思いにとらわれる。
20才の青年がチェルノブイリ原発を目指すとき、旅はその目的地の存在のありかたに呼応するように"根源的で黙示的"なものになるだろう。
しかし旅は往々にして期待を裏切る。チェルノブイリにしても観光客気分で石棺の前に立つ人々がいることを私は知っている。
それでも行くべきなのか、それとも内なるイメージの純度を高め、反芻して、仮想のチェルノブイリとの対話を続けるべきなのか。もちろん答はひとつではなく、あるいは、ない。
私自身は、少なくとも、そこに行くことを考え続けるだろう。

追記。
この記事とは直接関係ないが、以下のサイトには原発とチェルノブイリに関する重要な情報がある。
チェルノブイリ(京都大学原子炉実験所原子力安全研究グループ)
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by hatano_naoki | 2006-04-29 12:29 | 行くべき場所
横田早紀江さん、米下院外交委員会公聴会で証言
d0059961_0571145.gif3月半ばにこの記事で取り上げた米大使の拉致現場視察の意味が姿を現し始めた。
横田早紀江さんの証言は議会関係者に強い衝撃を与えたようである。
証言は、ニュースで知りうるかぎりでは大変に率直で正直であり、ことばの正しい意味合いにおいて人間の感情に訴えかけるものがあった。
asahi.comの記事
拉致問題の理解について、ある議員が「これは家族の問題だ」といっていたのが印象的だった。この受け取り方は、拉致問題が日本人の拉致という局面から家族が国家権力によって理不尽な方法で引き裂かれるという普遍な問題に拡大したことを意味する。
議員たちの受け取り方は概して好意的であり、拉致問題が対北朝鮮交渉で大きな役割を与えられる予感がする。人道的な理解だけでなく、外交カードとしての有効性が確認されたのだ。
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by hatano_naoki | 2006-04-28 23:01 | 日日
「カンボジア・ノート」(仮題)最後の戦い・続き
現時点では、おそらく二分冊になるであろう「カンボジア・ノート」(仮題であり、タイトルは未定だ)は私の能力を率直に反映しているはずだ。
それなりにがんばって書いているが、書きながら「あんまりうまくないな」と思う。
しかし次に何をどう書くかを考えているのも事実で、それはつまりまだ懲りてはいないということだ。もう少しうまく書けるはずだ、もう少し面白くなるはずだと考えている。

「カンボジア・ノート」はほぼ目標の原稿量に達した。
あとは内容の見直し(何百回やったかわからないが)と多少の(あるいは相当の)加筆、それに注釈を書くこと、写真を選んでトリミングすること。地図も書かなければならないかもしれない。
最終的な作業の中でもっとも注意しなければならないのは全体の(時間の経過も考慮した上での)流れだろう。
この作品は一種の成長記録のようなものだから、読者が事実を時系列で理解できないといけない。全体の構成は複雑ではないが、なるべく滑らかに流れるようにすること。
ちょっと考えてしまうのは、この文章とは何かということだ。解説書か文学か。紀行か自伝か。今の印象としてはどのジャンルにも属さない、いろんな要素の入ったよくわからないものという気がする。これは不安要素でもある。

ここしばらく「カンボジア・ノート」からは離れていた。
そしてこの4ヶ月ほど沖縄について調べつつ「沖縄勉強ノート」を書いてきたわけだが、ちょっと確かめてみたら現時点で「沖縄勉強ノート」は一冊の本を構成するに足る量に達している。
その性質上このまま本にすることはないけれども、4ヶ月で一冊の本を書いたということもできるわけで、その意味では勇気づけられた。
ぼんやりと沖縄の本を書きたいと思っている。なにをどう書くかは見えていないが、のびやかな紀行文を一度は書いてみたいという気がするのはたしかだ。
カンボジアに関しては、「カンボジア・ノート」の続編をあと2冊は書きたい。インタビューの本と旅の本。来年あたり、挑戦してみたいテーマだ。

そして本質的な問いに直面するのだが、私は(人生を賭けてでも)もっと書くことに注力すべきなのだろうか?
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by hatano_naoki | 2006-04-27 18:06 | カンボジア
「カンボジア・ノート」(仮題)最後の戦い
「カンボジア・ノート」(仮題)はこれが本当に最後の追い込みである。2003年の秋に書き始めて以来2年半もかかっているのはなんとも情けないが、自分の実力であるのでいたし方ない。
ただし今後はもっと計画的に書けるだけの勉強はした。
これまでになんとか単行本2分冊になる分量の原稿がまとまってきた。あと一息である。装丁は上製本にするのが目標だ。
ところで本のスタイルとして注釈欄を全ページに設けてかなりの量の注釈を入れ、同じ注釈欄に小さい写真も入れ、その他に1ページを使った写真や地図といった文字以外の要素も入れることにした。なかなかにぎやかな本になるかもしれない。
注釈を書くのはそうとうの手間になるはずだが、最後の苦しみ=楽しみということにしておこう。
この冬までにはなんとか出したいものだ。
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by hatano_naoki | 2006-04-26 19:58 | カンボジア
スコット・クロスフィールドの死
d0059961_19272190.jpgジョージア州アトランタ近郊で自家用機が墜落事故を起こし、スコット・クロスフィールドという老人が死んだ。84歳だった。
実は彼は1953年にダグラス製の「D-558-2 スカイロケット」に乗って世界で初めてマッハ2のスピードでの飛行に成功したテストパイロットだった。ちなみにマッハ1とマッハ2はロケット機によって達成されている。
それから53年後、かつてトップクラスのパイロットであったひとりの老人が単独飛行中に雷雨に遭遇し、やがて小さな機体は嵐に翻弄されたあげく山の中に落ちてゆく。
彼の脳裏を去来する無数の空の記憶・・・

"THE RIGHT STAFF"という映画がある(フィリップ・カウフマン監督、1983年作品)。トム・ウルフの原作を映画化したこの作品をいったい何度見たかわからない。
この映画にスコット・クロスフィールドが登場する。
主人公のチャック・イェーガー(サム・シェパードが演じている)は世界ではじめてマッハ1を越えた人物だが、彼のライバルとして描かれているのがスコット・クロスフィールドである。

"THE RIGHT STAFF"は最高水準の飛行技術と勇気とを持つ男たちの闘争と協力の物語で、英雄物語であり、目で見る飛行機の歴史であり、ひとつの時代の記憶でもある。
この映画を見た人間なら誰でもそうだろうが、では私自身はどんな"THE RIGHT STAFF"(正しい資質)を持っているのだろうか?と自問したものだった。他人には決して語らないが持っている者同士はお互いに認め合うことができる"正しい資質"。選ばれた者の共有する暗黙の矜持といってもいいだろう。

NASAのサイトでは老パイロットの死を悼むページができている。

CNNの記事

(写真:ダグラスD-558-2に乗るスコット・クロスフィールド、1953年9月。NASAアーカイブより。)
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by hatano_naoki | 2006-04-24 19:16 | 日日
沖縄勉強ノート(71)古琉球と近世琉球
高良倉吉著「琉球王国の構造」を軸に、古琉球から近世琉球への遷移についてのメモを作ってみた。
まず定義の確認から。
琉球とは、厳密には奄美大島から与那国島に及ぶ島嶼群であり、奄美/沖縄/先島の三地域に分けられる。琉球史とはこれら三地域の歴史の統一的把握を目指している。
歴史区分は先史時代(数万年前~12世紀頃のグスク時代のはじまりまで)、古琉球(12世紀頃~1609年の島津侵入まで)、近世琉球(島津侵入から~1879年の琉球処分まで)、近代沖縄(琉球処分~沖縄戦まで)、戦後沖縄(沖縄戦終結~。更に復帰前/復帰後に分ける場合が多い)。

古琉球から近世琉球への遷移の直接的な原因は島津侵入である。
高良によれば、古琉球末期の第二尚氏王朝尚真の時代に大きな変革が行われた。
王権の絶対化を目指すさまざまな方策(職制位階制の整備、神女組織の整備、按司の首里集住策、地方統治の強化、玉陵・円覚寺などの造営事業)が実施された。これらは中国皇帝の王権をモデルとしたという。
島津侵入は古琉球から近世琉球への遷移をうながしたが、こうした時代の流れの中で古来の祭祀国家から脱皮して合理的な思考に基づいて島津の支配を現実として受け入れつつ琉球王国の国家体制を立て直してゆくという困難な事業を実行したのが向象賢であり、その路線を受け継いで確立したのが蔡温だった。ここにいたって近世琉球の枠組みがたしかなものになる。
こうした時代の変化を琉球の海外交易とのかかわりで見てみると、琉球の海外交易がはじまるのは1372年、察度の時代であり、明の冊封体制下で隆盛を誇った。16世紀に入るとポルトガルやスペインの進出、明の衰退といった環境の変化が起き、16世紀後半までにはほぼ途絶えるが、島津の支配が始まると交易は17世紀半ばまでにほぼ回復する。

高良の本を読んでの感想は、高良自身が琉球のアイデンティティの回復を強く意識しているということだった。
琉球王国の面白さとは琉球がまさに独自の文化を持った小さな独立国家であったことにある。
古琉球ということばは伊波普猷が作ったが、このことばには単なる歴史用語にとどまらず沖縄の古い時代に対する愛惜がこめられている気がする。
琉球王国なるものについてもうすこし勉強してみたい。
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by hatano_naoki | 2006-04-24 00:34 | 沖縄勉強ノート
伊藤蘭との遭遇
d0059961_16191064.jpgたぶん1978年秋の解散からいくらも経っていなかった頃、渋谷・公園通りの東武ホテルを入っていった私とすれ違ったのが伊藤蘭、通称ランちゃんだった。
彼女がひとりでいたのか、それとも"関係者"と一緒にいたのかさえ覚えがない。なぜかといえば、ランちゃんの周囲には虹色に光り輝く靄(もや)のようなものがかかっていたのである。
その後、何人かの芸能人の実物を見たし、話をしたこともあったけれども、あれほどの靄には出会ったことがない。

キャンディーズのデビューは1973年、引退は1978年。わずか4年半しか活動しなかったというのは今となっては驚きである。
キャンディーズのレコードも買わず(CDの登場は1982年まで待たなければならない!)、もちろんコンサートにも行かず、テレビに出てくる彼女たちを見だけだった私はファンとはいえない。歌がうまいとも思えず、容姿が抜きん出ていたともいえないキャンディーズは、しかし胸がきゅんとなるような存在ではあった。そしてその幻惑的なイメージの中心にいたのが伊藤蘭だったのである。
スーちゃんはひとはよさそうだったが太めでちょっと暑苦しく、ミキちゃんもいい子だったに違いないが愛が足りなかった。しかしランちゃんはガラスのように壊れやすい容姿と程々のさばけた性格を組あわせたほぼ完璧な魅力を備えていた。
アイドルとは生きるという戦いの現場から降りて少し休んでもいいよとささやく存在だ。そこでは自己を弛緩させ、仮想の価値体系に身をゆだねることができる。その意味ではランちゃんはとてもやさしくささやく存在だった。
私がすれちがったランちゃんはたぶん23歳だったはずだ。つまりそれほど若くはなかった。血液型はおおざっぱなO型で、本人はそれほど繊細な性格ではなかったのかもしれない。
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by hatano_naoki | 2006-04-23 16:21 | 目撃・現代史
東京ディズニーランド開園(1983)
d0059961_22135288.jpg1982年の夏か秋頃のことである。
私が勤めていた会社に一人の男性がやってきた。応対した私に「日本にディズニーランドができるんですよ」と彼は言った。ディズニーランドにはさまざまなアトラクションに加えて多数の店舗ができる。その中のひとつの店で売る品物を仕入れるために彼は私のいた会社を訪れたのだった。
日本にディズニーランドができる・・・ちょっとマユツバな話だなと思った。しかしそれから商談はどんどん進展し、やがて実際に品物を納品することになったのは1983年の春、開園の少し前のことである。
納品に立ち会うために東西線の浦安駅からタクシーでディズニーランドに向かった私が到着したのは巨大テーマパークの裏にあるヘッドクォーターだった。おおぜいの白人が歩き回るヘッドクォーターはまるで進駐してきたアメリカ軍の基地司令部のようだ。
それからテーマパーク施設に入った。
人の姿のほとんど見えない広大なテーマパークを歩きながら私は奇妙な感覚を味わっていた。そこはまるで外国の町のようで、本物の外国の町にさえ見える。それまで遊園地というのは子供にもニセモノだとわかる安手な設備であふれた遊び場だったが、ディズニーランドはまったくの別物だった。それまでとは比べ物にならないほどの大量の資金を投下し、図書館ひとつ分のマニュアルで鎧(よろ)った人工の世界。
開園前だったから町全体が真新しく、しかもほぼ無人である。時間と空間がひずみ、ねじれて生まれた町だという気がした。まるでSF映画の一場面のようだ。町はよくできているが、その質感は本物とはちがう。本物に近づけることはできただろうが、与える印象をあえて物語の世界に少しシフトさせたのだろう。こういう操作も微妙なねじれの感覚を生み出しているのだなと思った。
それからだいぶ経って、開園後のディズニーランドに行った。
巨大テーマパークは活気があったが、ひずみとねじれの感覚は消えうせ、ディズニーランドという了解された幻想の世界を何の疑問も持たずに遊び尽くそうという貪欲な幻想消費者の群が視野いっぱいを埋めているのが見えた。

東京ディズニーリゾート

(写真:東京ディズニーワールド。下にディズニー・シーが見える。左側海沿いはホテル群)
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by hatano_naoki | 2006-04-21 21:50 | 目撃・現代史
水俣の記憶(1975)
d0059961_23562036.jpg道端のコンクリート壁にポスターが貼ってあった。
「水俣 新たな50年のために」という講演会のポスター。2006年4月29日午後2時半~6時、日比谷公会堂、司会:平田オリザ(劇作家)、講演:緒方正人(漁師・水俣病患者)、中原八重子(水俣病患者)、石牟礼道子(作家)、原田正純(精神神経科医師)、発言:柳田邦男(ノンフィクション作家)、田口ランディ(作家)、最首悟(現代思想)、上條恒彦(歌手)。入場料1800円・・・

水俣。
過去がフラシュバックし、突然、1975年に水俣に行ったときのことを思い出す。そういえば、以前私はこんな文章を書いていた。

***

夕刻、東京駅を離れて東海道を西へ向かい、やがて日が落ちて、しかしまだ熱海かそのあたりを西鹿児島行の寝台特急「はやぶさ」は走っている。
関門海峡はまだはるかに遠くて、到着までの長い時間はたしかに存在している。その時間を追うのでも追われるのでもなく、いわば列車の速度に合わせて生きるというような、そんな気分が自然に感じられてくる。途端に空腹を感じて席を立ち、車内の通路を延々と歩いて食堂車に行く。四人掛けの席をひとりで占め、ハンバーグか何かを注文し、行きかけたウェイトレスを呼び止めてビールを一本追加する。
窓に自分の顔が映っている。そこから目の焦点を外し、窓ガラスに顔をつけるようにして暗い外の景色を見分けようとする。やがてカチャカチャと食器が触れ合う音がして小柄なウェイトレスが食事を運んでくる。ひとりきりの移動する晩餐の始まりである。
となりでは数人の男たちが騒々しく話しながら酒を飲んでいる。かなりできあがっているようだ。しかしそのグループを除くと他の客たちは静かだ。列車の揺れが心地よい。車窓を流れる家の明かりというものはなんとまあ気分のいいものだろうかと考える。ビールの酔いが回ってくる。
あすの午後には水俣市の町はずれに住んで水俣病と患者の取材を続けているひとりの写真家に会うことになるだろう。名前は塩田武史という。わたしは彼に会うために西鹿児島行寝台特急「はやぶさ」で東京を離れたのである。

写真家と出会ったのは北インドのカジュラホである。
私は広大な亜大陸をさ迷っている途中で、写真家はナイロビかどこかでその仕事に対する賞を授けられた帰りだった。写真家はかなりいいホテルに泊まっていたが私は安宿の大部屋だった。そこにはインドではごく当たり前に見られる木の枠に荒縄を張っただけのベッドが並んでいたが、そのデザインは紀元前から変わっていないということだった。
その時この小さな村には合計で四人の日本人がいた。ひとりは何ヶ月も逗留していてその日本名をもじって「アショカ」と呼ばれており、もうひとりも長いことこの村にいて、私は数日前に来て数日後には出て行く者であり、写真家も数日だけ滞在する旅行者だった。そういう四人がどういうわけか一緒に食事をしたり無駄話をしたりする時間を共有したわけだ。
写真家はその2年前に『写真報告-水俣・深き淵より』(西日本新聞社)を出版し、またユージン・スミス夫妻、宮本成美氏他と共同で『不知火海・終りなきたたかい』(創樹社)を出版していた。ユージン・スミスは妻アイリーンと前年まで水俣に住んで取材に没頭していた。
帰国した私がなぜ写真家に会おうとしたのか、写真家がなぜ受け入れてくれたのか、今となってはたしかなことはなにもない。

寝台特急「はやぶさ」が水俣駅に到着したのは1975年の春のある日の午前10時かそれくらいだった。駅前に立つと300メートルほど先にチッソの正門が見えた。先入観のせいか軍事施設のように陰鬱だ。
駅のそばの安宿に入ると、お茶を持ってきた仲居さんが「記者の方ですか」といくらか疎ましいような口調で問いかけてきた。被害者の多くを占める漁民たちと工場と関わりを持つ町の人々の間にある亀裂が着いて早々に見え隠れする。
荷物を置くと町に出てバスで南へ4キロほどの距離にある月浦(つきのうら)に向かった。そこに写真家が住んでいるのである。小高い斜面の途中にある写真家の家はすぐに分かった。家に上げてもらい、ぼそぼそと話をした。それから写真家は私を車に乗せて付近の湯堂や袋の集落に行き、何軒かの民家に立ち寄った。写真家はそれぞれの家の庭先で村人と世間話をしたり縁側に座り込んだりした。私は存在を消すように して傍らに立っていた。夜になってから国道沿いの小さな食堂に立ち寄り夕食を食べた。写真家に別れを告げた私はバスで暗い国道を走って水俣の町に戻り、翌朝フェリーに乗って御所浦経由で天草に渡った。

その短い水俣訪問で写真家と一緒に会った人たちのすべてが水俣病の患者であるか家族に患者を抱えていたのだった。彼らは写真家にとって被写体であると同時に共に運動を進めている仲間でもあったが写真家は何も説明しなかった。写真家は私になんら「ブリーフィング」を行うことなくいきなり現場を見せたのである。
袋漁港に立って水面を見透かそうとしながら、私は水銀を呑んだ魚群が狭い水俣湾内に封じ込められたまま泳ぎ回る光景を想像した。

ここで水俣病事件の経緯を手短に述べるなら、水俣にチッソの前身となる窒素肥料会社が設立されたのは1908年のことである。
1953年、水俣病第1号患者が発病する。1956年には熊本大学が水俣病伝染病説を否定し、原因を工場排水と指摘する。1963年には熊本大学によって水俣工場排水中から有機水銀が検出される。
1968年、政府は水俣病を公害病と正式に認定。1969年、チッソに損害賠償を求める1次訴訟。
1971年から1988年にかけて患者被害者勝訴の判決がつづくが、1992年には東京地裁が、1994年には大阪地裁が、水俣病における国と県の責任を否定する判決を出す。
1996年、水俣病患者とチッソは政府解決案により和解する。
こういう流れの中で私が水俣に行った1975年は1次訴訟で熊本地裁が患者被害者の勝訴判決を出した1973年以降、状況が患者被害者の救済に向けて有利に展開していると思われた時期ということになる。

その後、写真家と連絡をとることはなかった。写真家はインドで会って一度だけ訪ねてきた男のことを速やかに忘れてしまったに違いない。しかし彼が解説することもなく事実だけを放り込んできたせいで、死んだために老いることのない友だちのようにそれらの事実が私の中で生きつづける。

***

私の水俣に関する記憶はそれだけだ。
東京に帰った私は塩田氏の写真集を買い、その中で数日前に出会った人々に再び出会った。

塩田武史という写真家とはいったいどのような人物だったのだろうか。
財団法人水俣病センター相思社の機関紙、「機関誌ごんずい」に掲載されたプロフィールによれば、
「1945年香川県生まれ。1967年より撮影を始め、1970年に水俣に移住。水俣病・水俣病闘争を写真雑誌などに発表。第一次訴訟当時の写真を多数撮る。1973年、『写真報告-水俣・深き淵より』を西日本新聞社より出版。同年、ユージン夫妻、宮本成美ほかと共同で『不知火海・終りなきたたかい』を創樹社より出版。現在、熊本市在住。」
となっている。

あれから30年が経った。
塩田氏はまだ水俣にいて相変わらず写真を撮り続けているはずだ。
私は曲がりくねった道をたどりながら、水俣に関して何も行動することはなく、しかしどこかにあのときの一日限りの記憶を宿してときどき触りながら生きている。
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by hatano_naoki | 2006-04-20 23:56 | 目撃・現代史
花水木、満開
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by hatano_naoki | 2006-04-20 19:27 | 写真日記