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沖縄勉強ノート(81)「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」
d0059961_7245211.jpg「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」(比嘉康雄著、集英社新書)はずいぶん前に(おそらく五年ほども前に)買ったのだが通読はしなかった気がする。そしてもう日に焼けて変色しているこの本をまた読み始めた。
ひとことでいえば、琉球王朝以前の沖縄の信仰について示唆を与えてくれる。琉球王朝は既存の信仰や宗教にまつわる地域組織を国家のもとに統合し体系化したが、それ以前にはまさに原風景と呼べる信仰が行われていたわけで、その姿を久高島に残る祭祀を通じて考察している。
久高島の信仰の世界に深く分け入っているが研究書というわけではなく、むしろ作者の感性と経験をもとにした記述も多く見られる。私のスタンスに似ているのかもしれない。
久高島の信仰は祭祀レベルでは人口の減少によって維持しづらくなっている。この本に書かれたことは主に1970年代の見聞をもとにしているが、最大の儀式であるイザイホーは中止されて久しく、いまや再興は難しいにちがいない。

「久高島の世界は、この秩序霊と混沌霊の緊張の中で成り立っている」という文中の指摘はよくわかるし、日本の古代にもひとびとがそのような感覚を持って生きていた時代があったと思える。そして現代に住むわれわれの内部にも同じ感覚が隠れているのだが、目に見えるモノの世界が力を持っているために気づくことが少なくなっている。
また神職者が専業ではなく、いってみれば生活者であって、祭祀組織と共同体とがぴったりと重ねあわされているのも面白い。これも信仰の祖形だろうか。

この本の著者はある意味で幸せだったと思う。失われてゆく祭祀の最後の瞬間に立会い、それを記録した。彼は写真家として多くの記録を残したが、その多くは今では見ることができない。戦後も久高島で行われていた風葬の習慣が絶たれたのは、外部から入ってきた人物が風葬の棺をあばき、写真に撮ってそれを雑誌に発表したことが理由だという。外部とはこういうものであり、私も「外部」の一部であることが憂鬱だ。しかしこの作者は、おなじ沖縄県人であることも幸いしたのだろうが、島から受け入れられた。稀なことだと思う。
私も久高島を歩きたいが、自分の異物感を強く感じることだろう。そしてまた、島内の聖地を見たいと思ったなら、同じような動機で聖地にずかずかと踏み込んだり、無遠慮な質問を連発したりするような一群の鈍感な感受性を持つひとびとのひとりとしての自分を疎ましく思うに違いない。

こういうガラス細工のような小さな共同体に接近するのはどうすればいいのだろうか。
ひとつの手は観光客になりきることだろう。何も知らない観光客はそれなりに歓迎されるはずだ。観光地図に沿って歩き、行ってはいけない聖域には近づかず、いまさらの聞き書きや奥深い聖域に行きたいという希望を述べない。
以前、久高島を目指したが台風の余波で行くことをあきらめたことがあった。今はせめて写真集を見て過去の記録を読み、実際にいったなら怪しげな行動はとらないことにしよう。

追記。
この本に収録されている写真は良質なものが多いが、中でも帯に使われている写真はすばらしい。本文中では「草の束を振るう外間ノロとウメーギ」というキャプションがついている。1975年に撮影されたこの写真は島の北端に近いカベールで行われるヒータチという豊漁祈願の光景の一部である。白い装束の神女が海風の中でつる草の束を振り、足元の岩に打ち付ける。なんという聖性の表象。
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by hatano_naoki | 2006-08-30 07:22 | 沖縄勉強ノート
第14回カンボジア勉強会
昨日は第14回カンボジア勉強会だった。いつもどおり上野桜木の一軒家で。北川泰弘さん(JCBL代表)の地雷に関するお話がメインで、それに「日本人はカンボジアに何を感じるのか」というテーマのディスカッションを加えた構成。カンボジアで自主制作の映画を撮るという井口みどりさんの話もあった。参加者はひさしぶりに30名近くにまで増えた。17時に終了したあと、上野駅近くで食事会。ここにも20人ほどが来ていた。
北川さんの話は地雷に関する包括的な内容で、予備知識のないひとにも分かりやすかったはずだ。地雷廃絶への長い道のりに対する絶望感と、市民レベルから立ち上がった「オタワ条約」の成果のすばらしさが強いコントラストを以って印象付けられる。
最後の「カンボジアと私」というセッションでは参加者がカンボジアから受けた印象について話し合ってもらった。なんら共通点を持たないひとたちから驚くほど似通った感想を聞くことができるのはちょっとした驚きだ。
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by hatano_naoki | 2006-08-27 11:05 | カンボジア
沖縄勉強ノート(80)よしもとばなな著「なんくるなく、ない」
d0059961_15532464.jpgよしもとばななが沖縄について書いた文章(旅日記みたいなもの)を集めた「なんくるなく、ない」(新潮文庫)を読んだ。
読みやすくて面白い。沖縄好きにはたまらないかもしれない。そうなんだよね、とうなずきながら読む読者が目に見えるようだ。
興味を持って読んだのは、どういう沖縄観がそこにあるかということだった。結論からいうと基本的に現在の多数派である(ように見える)沖縄観がそこにあり(このことは挿入されている写真のテイストからも判断できる)、そこに軸足を置いたうえで(このスタンスはそれなりに安定している)、自由な感慨をふくらませているというような感じ。島津支配も琉球処分も沖縄戦も出てこないが、そのことが不満というわけではない。ただし全体として「私はそれほどよくは知らないよ」というスタンスはちょっとずるい。読者が共感するであろう指摘や感想がふんだんにちりばめられている。自分の感覚に素直に書かれているのも好感が持てる。
私はこの作者の小説を読んだことはなく、「なんくるなく、ない」についても(作家の提示する基本的な沖縄観が凡庸に見えるので)それほど共感しないかわりに反発も感じなかった。読んで楽しませる文章を書くことが私は苦手であるらしく、だったら書くなよといわれそうだが、このばななの一見お気楽な文章からいろいろ学ばなければならないかもしれない。もうひとつ根本的なことは、やはり多くのひとから評価される作品を書かなければダメだということで、、「なんくるなく、ない」にしても作者のこれまでに高い評価を受けた小説群があってはじめて受け入れられる類のものだ。私もちゃんとしたのを書かないとなあ、と思うのだった。
これは本質的な問題ではないのだが、半分はうらやましいなあと思うことがある。作家は出版社のスタッフや彼らがアレンジした人々や自分の事務所のスタッフなどの「サポート」を受けながら旅をする。特注のパッケージツアー。だから会うべき(普通なら会えないような)人に会い、貴重な情報を自然に手に入れ、見るべきものを目撃する。宿泊にも食事にもたぶん自分ではお金は払っていないのだろう。売り上げの見込める作家に作品を生産させるための生産システムが存在するわけだ。こういう作家と出版社の関係は昔からのもので外からとやかくいうことでもないけれども、百パーセント他人によって準備された上げ膳据え膳の旅が作品を生み出しているのは事実だ。
沖縄本はたくさん出ているが、ハイテンションのおもしろ旅本、「沖縄最高」の癒し本、被害者としての沖縄を訴える怨念本といったいくつかのカテゴリーに分類される。これらのどれも気に入らない。沖縄という土地の沖縄らしさは昔から(具体的には島津侵入以後に)他人によって演出されてきたという気がする。ばななの沖縄観はそれなりに健康的だと思うし、屈折していないだけ好ましいが、それでも広い意味で「作られた沖縄らしさ」の枠組みの中に安住しているように思える。

ところで、この作家の父親が書いた詩に「佃渡しで」というのがある。

 佃渡しで娘がいった
 <水がきれいね 夏に行った海岸のように>
 そんなことはない みてみな
 繋がれた河蒸気のとものところに
 芥がたまって揺れているのがみえるだろう
 ずっと昔からそうだった
 (以下略)

私はこの詩をいたく気に入っていたのだった。ここにでてくる娘が、その後の作家・よしもとばなななのだろうか。
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by hatano_naoki | 2006-08-25 15:51 | 沖縄勉強ノート
沖縄勉強ノート(79)那覇に住んだら
何ヶ月か那覇に住んでみたいと考えている。
沖縄を永住先に選ぶひとたちもいるようで、そのための案内書まで出ている時代だが、私の場合は沖縄で書きものをしたり調べたりといったことをしたい、それには何度も往復するよりも住んでしまったほうが安上がりだし仕事もはかどるのではないかという単純な理由からだ。
那覇に少しの間だけ住み、町歩きをしたり資料を探して歩いたりインタビューをしたりして本を書く生活をしてみたいと漠然と考える。まあ、これは現段階では夢の領域にあるにすぎないのだが。
那覇には幾層にもわたる「歴史のレイヤー」が積み重なっている。破壊されてしまったものも多いが残っているもの、痕跡を発見できるものもある。私の内部では那覇はヴェネツィアに匹敵する隠微な町だし、その歴史はユニークで示唆的でつらくてせつない。

妄想の続き。
那覇にやってきた住人でも旅人でもない中途半端な長期滞在者が流れ着く先はいわゆるウィークリーマンションかもしれない。那覇市内にはかなりの数のウィークリーマンションがあって、素性のよくわからない住人の受け皿になっている。私が那覇に滞在する場合、こういったウィークリーマンション的施設が一番手間がかからないだろう。
ただ、どのようなかたちで那覇に住み着くかについては、スタイルの問題もある。ウィークリーマンションのイメージは(実際は別として)すさんでいる。ビジネスホテル住まいは金がかかり、そのわりにつまらない。いわゆるゲストハウスに逗留すればコスト的には最低で抑えられるが、なんとなく薄汚い。もっとも「スタイリッシュ」なのは、自分で那覇を見下ろす首里の高台に一軒家を借りることだろうか。しかしこれはむなしい。
薄汚くなくて虚しくもない狡猾な手としては、うらぶれた場末の安ホテルというのもある。いや、薄汚いか。これはそれなりにかっこいいかもしれないが、妄想に足る実在する安ホテルがあるかどうか。それにいかに安ホテルとはいっても一泊6,000円くらいはするはずで、割安感はない。
ただの木造アパートにもぐりこむ手もあるだろう。これはこれで人間関係がわずらわしい気がする。さてどうしたものか。ちょっといいかなと思うのは船員会館。根無し草っぽくていい。
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by hatano_naoki | 2006-08-25 15:36 | 沖縄勉強ノート
ヴェニス憲章とアテネ憲章
文化遺産という概念の発生とその変遷について一度は整理しておきたい。その一環としてヴェニス憲章とアテネ憲章の全文の日本語訳を手に入れた。
アテネ憲章については誤解していたようで、これは文化遺産の保護をテーマにした憲章ではなく、文化的記念物を保護すべきだとする項目はごく一部であって、全体としては都市生活そのもののあり方に関する一種の提言であり宣言ともいうべきものだった。しかもイメージしているのは西欧の都市に代表されるいわゆる先進国の都市であるようだ。1931年という時代を考えれば当時としてはそうとうに先進的な考え方だっただろうし、乗り越えられること自体がその価値の大きさを証明していたともいえる。背景には国際連盟の成立という時代があり、その時代の支配的なイデオロギー(つまり西欧への一極集中的な価値観)が文化遺産に対する考え方にも影響を与えていたのは間違いない。文化遺産学をやるつもりはないが、アテネ憲章に至る「文化遺産概念の黎明」とヴェニス憲章以降の概念の変遷についても知っておきたい。ただ、率直にいってあるモノを文化遺産としてとらえる考え方がどうも好きになれない。あるモノが文化遺産として定義されるという状況は、そのモノの本来の存在のありかたからすれば二次的な、あるいは副次的なできごとであるという気がする。そのモノ自身は文化遺産として定義されることには基本的に「無関心」なはずだ。いわば「押しかけの定義」。もうすこし整理したい。
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by hatano_naoki | 2006-08-22 19:48 | カンボジア
文革とクメール・ルージュ
文革がクメール・ルージュに与えた影響が気になる。そこでおくればせながら文革についての「入門書」を読んでいる。なぜこれまでさぼってきたかといえば、文革を知ろうとすることは「泥沼の戦争」に突入するようなものだと思えてならなかったからだ。
文革(派)がポル・ポトをはじめとするカンプチア共産党幹部に与えた影響は大きく、都市からのj住民追放も集団での強制的労働も社会構造の破壊(そして破壊後に次のモデルを用意しなかったこと)も文革とそれに先行する時代から学んだ、あるいは(「革命」と死との距離という意味で)拡大再生産したといっていいのだろう。文革を死の数(人口の少ないカンボジアでは死者の比率を高めることで勝つしかない)で超えようとしたのかも知れない。
ここまでは誰でもいえるが、問題はその先だ。文革とクメール・ルージュの関係をきちんと検証した研究はあるのだろうか。
文革期の中国の思考に関して、これは科学的な見解とはいえないが、「死の軽視」を指摘することができるとしたら、これこそがポル・ポトに移植された最大の「文革の種子」だったかもしれないと思う。
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by hatano_naoki | 2006-08-19 06:10 | カンボジア
あとちょっと
本の原稿は注釈部分を書く作業がほぼ終わった。項目数はかなり増え、2冊で300項目以上になった。その内容は本文とは直接関係のない方向にまで枝分かれする。注釈と写真の準備だけで一ヶ月以上かかったことになる。注釈を書いていると自分がいかに上滑りして書いているかがわかってしまうのだが、それも今はいたしかたない。いろいろな意味で取りこぼしが少なくないのが気になるが、本としての客観的な仕上がりはどうだろうか。
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by hatano_naoki | 2006-08-18 05:22 | カンボジア
パウル・クレー展と川村記念美術館
d0059961_825257.gif千葉県佐倉市にある川村記念美術館でやっているパウル・クレー展を見にいってきた。
この美術館は企業の持ち物である。大日本インキ化学工業(株)が「その関連グループ会社とともに収集してきた美術品を公開するため」に、1990年5月に千葉県佐倉市にある総合研究所敷地内に開館した、とウェブサイトに書かれている。
展示は常設展示または特別展示+常設展示というスタイルで、特別展示がある場合は順路に沿って1階の常設展示を見てから2階の特別展示を見る。常設展は1000点を超えるという収蔵作品のなかから50~80点を展示する。収蔵品は特定のカテゴリーにかたよっているわけではなく、17世紀のレンブラントから20世紀美術に至る広範囲な作品がコレクションされている。
佐倉の駅からは、JR・京成のどちらからも無料の連絡バスがあるが駅からは20~30分かかる。東関東自動車道経由でクルマでいくのが便利かもしれない。美術館は研究所の広い敷地の一角にあり、緑の多い環境は大変にすばらしい。
これだけのまとまった数のクレーの作品を鑑賞したことはなかった。展示は小品が多い。記憶の中にあるクレーのイメージよりも暗い色彩の作品が多かったのは意外だった。クレーというのはもっと色彩が鮮やかだという先入観があった。クレーの小品の前の散歩という気分で絵を見て歩くのはなかなか気分がいい。

写真:クレー「駱駝(リズミカルな樹々の風景の中の)」1920年
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by hatano_naoki | 2006-08-16 08:20 | 日日
注釈を書いた
2冊分あわせて200項目を超える注釈を書いた。
注釈というのは、予想したとおり、ちょっとした病気みたいなものだ。きりなく増殖する。「短いコラムの集まり」という当初のイメージを実現するのはちょっと無理かもしれないが、少なくとも「注釈のついた本を書く」という夢は実現しつつある。
写真も九割方準備した。
あとはこうした構成要素をレイアウトすること、地図やイラストを準備することなどが残っているが、これらは点数は少ないけれども手間がかかりそうだ。あと1週間というところだろうか。
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by hatano_naoki | 2006-08-12 00:16 | カンボジア
沖縄勉強ノート(78)那覇10.10大空襲
d0059961_2355506.jpg1944年10月10日の那覇大空襲について知りたいと思っていたが、「那覇10.10大空襲」(大田昌秀著、久米書房)という本をみつけた。
それによると米軍の攻撃は実に計画的であったことがわかる。
攻撃はほぼ一日に集中して行われたが、まず飛行場を攻撃して反抗を封じ、それから港湾施設を叩いて補給路を断ち、最後に戦意喪失を狙った(と私は考えるのだが)那覇への国際法に違反するほどのひどい無差別爆撃を行った。
那覇の死者255名はその後の沖縄戦におけるすさまじい数の犠牲者を考えるときそれほどの衝撃をもたらさないが、もうひとつの恐ろしい数字は消失した家屋の数である。当時の那覇は人口7万、総戸数約一万五千戸だったが、その約9割が焼失してしまった。
このときの攻撃は那覇だけでなく奄美から先島、大東に及ぶ範囲で行われたが、攻撃の密度や手法には差があって、那覇に対する攻撃の執拗さは抜きん出ている。
米軍はのべ千四百機を出撃させ、戦死者はわずか9名だったという(米軍発表)。
攻撃中、米軍が自由に行動できたことは明白だ。
那覇大空襲の歴史的な意味は2つある。太平洋戦争の終わりを告げ、翌年に起きる沖縄での地上戦を、そしてさらには東京大空襲をも予感させる出来事だったことがひとつ。それから琉球王国以来の伝統的な那覇の町並みを地上から消し去る暴挙であったことがひとつ。わずか一日の空襲が那覇を大きく変えた。さらに米軍は(そのことを意図しなかったにせよ結果として)占領後の都市計画にかかわることによって道路の位置をまったく変えてしまった(戦後の道路計画がどのように進められたかは少し調べなければならない)。
私が思うには、道路(や都市内の運河)は都市の記憶のかなり大きな部分を占めている。道路を変えると記憶が失われてしまう。想像力が行使できなくなる。だから那覇の旧市街に行って戦前の那覇を想像する行為は一種の幻視に近いものになってしまう。

追記1。
この本の中に空襲を受ける前の那覇の旧市街の空中写真がある。それには辻原墓地と辻遊郭の一部が写っているのだが、辻遊郭の建物がかなり大きかったことが分かる。しかも一種の規格化というか、ほぼ同じ大きさの大きな瓦葺の日本家屋が並んでいた様子が見て取れる。当時の辻を知るひとびとはもう80歳を超えているはずだが、会って当時の話をきいてみたいものだ。

追記2。
戦史をこまかく調べるところまで行く気はないけれども、沖縄戦関係資料閲覧室には一度行ってみたい。
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by hatano_naoki | 2006-08-07 17:17 | 沖縄勉強ノート