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本ができた
本ができた。
店頭に並ぶのは予定より延びて来週の7日だという。私の手元にも同じ7日に届くはずだ。
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by hatano_naoki | 2006-11-30 17:35 | カンボジア
笑う「加害者」
安倍首相直属の教育再生会議(野依良治座長)は「加害者」の出席停止を見送ったという。
記事
加害者の保護ばかりを叫ぶ"人権派"の跋扈するこの国で、またも加害者保護が優先された。
委員からは「教育には愛情が必要だ」といった慎重意見が出たというが、加害者の行動が子どもを死なせている危機的な状況の中で、なおもひとを死に追い込む人間を守ろうとする勢力が力を維持している。
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by hatano_naoki | 2006-11-29 17:38 | 日日
空(くう)に書く(つづき)
まだ書き始めてはいない。
しかし事実上書き始めている。文字にしてはいないが、作品の色と感触の間合いをはかっているというような感じ。あるひとが作品を読むとき、もちろん書かれた内容を読むわけだが、読みながら感じるのはその作品を流れる空気とか、肌触りとか、重さとか速さとか、空間のひろがりとか、さまざまに形作られた作品の世界そのものだ。
今の私の場合、単純にいって書くことはできると思えるけれども、それらの文章の連なりの作り出す世界をどうするかという一点で立ち止まっている。今まではまず書き、文章の連なりが表れてきてそこから漂う雰囲気や作品世界(そんなものがあるとすればだが)がどんなものかを自分自身も発見するのだった。どのようなやりかたがベターかという逡巡ではなく、今度はまず作品全体を流れる空気をある程度デザインしたいという気分でやっている。
そこで、いきたりばったりで書き始めるやりかたをしたくないというのは決定事項だとして、"作品全体を流れる空気"などというものをどのようにしてデザインすればいいのだろうか?文体、立ち位置、そしてカテゴリー意識。私の場合、現時点での問題のひとつは、書かれたものがごく少数の関心しかよばないことだろう。普遍性がかけているということかもしれない。いずれにせよ、どんなものができあがるかをイメージできるようになるまで、立ち止まって思いをめぐらす日々が続く。それはなかなかすばらしい日々でもある。
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by hatano_naoki | 2006-11-25 22:20 | 日日
「悪意あるプログラム」のゆくえ
インターネット上の「悪意あるプログラム」のゆくえについて、McAfeeのスタッフがこんな予測を行った。
「1986年から2000年までの「趣味目的」から、1990年代後半から現在までの「犯罪/営利目的」に移行した」
「携帯電話に保存されるデータ量が増え、決済機能が搭載されるようになったことで携帯電話内のデータ価値が高まり、携帯電話への攻撃が徐々に増える」
「将来的にはサイバーテロを目的とするマルウェアが作成される」
といった指摘は、確かにそうだろうなという説得力がある。第三世界の悪意と憎悪は先進諸国をサイバーテロで攻撃するようになるにちがいない。なぜならサイバーテロはテロリストの側にいる民衆と自分たち自身の消耗を最小限にとどめつつ、少ない資金と人的資源で大きな効果をあげる、まさに理想のテロリズムであるからだ。その意味では、高層ビルに旅客機を突入させる手法は爆弾を抱いて敵の中で自爆する旧来のテロリズムの完成形といえるかもしれない。テロリズムにおける新しいパラダイムがもうすぐやってくる。
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by hatano_naoki | 2006-11-21 00:14 | ネットとデジモノ
東野真著「緒方貞子-難民支援の現場から」
d0059961_146022.jpg東野真著「緒方貞子-難民支援の現場から」(集英社新書)はNHKの番組制作から生まれた副産物という側面もある。こういう本の特徴は、この場合でいえば緒方さん本人の自伝ではおそらく控えめに語られるようなこと(つまり本人が語れば自慢話になってしまうようなこと)を第三者の立場から評価できることだろう。実際、本書では緒方さんがどのようにして組織内の信頼を勝ち得て行ったかが組織内のひとびとの証言をもとに描かれている。また国連の一組織であるUNHCRの内情が予想とは違ってさほど官僚的ではなくむしろ人間的であることも読者をほっとさせる。
本書で私にもっとも印象的だったのは、序章の冒頭に出てくるのだが、緒方さんが行動のもとになっているエネルギーはなにかと尋ねられる場面だった。これに対して緒方さんは「怒りかもしれないですね」と答えている。
その怒りとは一番深いところでは不公正に対する怒りであり、しごとを進める上では自分が正しいと信じている行動が阻害されるときの怒りだろう。これはとてもよくわかる。怒りとは状況に対する結論のとるひとつのかたちである。怒りは瞬時に結論として出てくるので、まだるっこしい経過説明や理由づけはずっと後方にある。それらはあとから慌てふためいて追いついてくればいいのだ。状況判断は怒りのかたちをとることで結論にもっともはやく到達する。
それにしてもなんとすばらしい人物像。私はこの人物をほとんど100パーセント尊敬している。困難な仕事に立ち向かう現代の本物の英雄であり、その英雄像はスポーツ選手に象徴される「英雄の代替物」ではない。
緒方さんは現在がパラダイムの転換の時期であると言っている。冷戦後の世界を律するルールはまだ見えていないが、緒方さんは日本の進むべき方向として人道大国という概念を提示する。武力では平和は守れないともいう。
しかし、さて、どうなのだろうか。世界を考える以前に、この小さな国は深く迷走している。原理原則がみつからないからだ。個人的な考えでは、国家ないしは民族にとっての原理原則は自らの血で手に入れるものだ。私たちの国家とその思想は透明なゼリーに閉じ込められたイチゴのひとかけらのようなもので、ほとんど空想的な国家の様相を呈している。リアリティはどこにある?
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by hatano_naoki | 2006-11-20 18:58 | 日日
沖縄勉強ノート(88)岡本太郎著「沖縄文化論」
d0059961_17314543.jpg今の私にはこの高名な芸術家を認めることがむずかしい。太陽の塔がいいと思ったことはないが、それが理由ではない。「沖縄文化論」はひどく落ち着かない気分で読んでいる。ひとつには久高島での彼の行いが許せないということがある。グソー(風葬地)に入って死者の写真を撮り、雑誌に発表したことは私をも傷つけた。男子禁制のクボーウタキにも入り込んでいる。比嘉康雄氏もクボーウタキに入って写真を撮っているが、このひとは神様が許したという気がする。一方の岡本太郎は闖入者だという気がしてならない。この本は毎日出版文化賞を受賞している。名著だと評価されているのだと思う。しかし私には受け入れにくい。この芸術家の言説を信用していいものかどうか、迷っている。たぶん世評どおり彼の指摘は鋭く的を射ており、私のような印象はおそらくいいがかりのようなものなのだろう。この本はすばらしい本であるにちがいない。しかし私は自分の感性に正直に生きるほかなく、そうであるならば芸術家の存在そのものからうさんくさい匂いを感じてしまっているので、この本もまた信じるのがむずかしい。読みながら不安である。
一方で、芸術家の描く沖縄は、実は私がこれから描こうとしている沖縄像に近いようにも感じられる。そうであるならば、1959年にすでに描かれた沖縄像を、それよりも低レベルの作法で50年後に描く意味は皆無ではないか。これは一種の近親憎悪かもしれない。
この本の本質的な特徴ではないが、書かれてから時間が経過したために興味を引く部分もある。町や風景の描写も時代を描いて貴重だ。たとえば飲食店が内地スタイルのすしやなどばかりだったこと、地元のひとびとには泡盛がそれほど好まれていなかったことが出てくる。つまり観光地としての沖縄の訴求が始まる前夜の沖縄、化粧をする前の沖縄が表れている。沖縄の沖縄らしさを強調する姿勢がなかったのだ。それはつまり地元のひとに沖縄固有の文化がそれほど評価されていなかったということでもあり、おそらく内地の人間にとっても状況は似たようなものだったのだろう。今からふりかえると芸術家の称えた沖縄のイメージはその後そっくり観光沖縄の鋳型となったように思える。それはある種の先見性といえなくもない。
居心地の悪い読書だが、芸術家が自由奔放に遠慮せずに書いていることは伝わってくる。おそらくすごいスピードで書き上げた原稿だろう。かつ感覚的だ。
本書とは直接関係のないことだが、ここしばらく、沖縄に原型を見ること自体がステレオタイプだという気がしてきた。沖縄に原初的で根源的なもの、日本本土では失われたものを見ること自体、まちがっているとは言い切れないが、情緒的な視線で原初的なる沖縄を見ることはいかがなものか、と感じてきた。要するに腑分けが必要なのだ。
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by hatano_naoki | 2006-11-19 17:28 | 沖縄勉強ノート
「東京にはもう何度も・・・」と「東京タワー」で流れたので
昨夜、このブログへのアクセスがいつになく増えたので、なぜだろうかと考えていた。アクセス解析を見ると、「東京にはもう何度も」というキーワードでの検索が急増している。そこでこのキーワードでgoogle検索をしてみると、テレビドラマ「東京タワー」でこの曲が流れたことがわかった。「東京タワー」が放送されるのは知っていたが、最近の大泉洋がきらいなので見なかったのだ。おそらく、この歌を知らない世代が何千人も何万人も、歌詞の一部である「東京にはもう何度も」をてがかりにインターネットをさまよい、その中の一部がこのブログのこのエントリーにたどりついたのだろう。風が吹けば桶屋が儲かる。テレビをぼーっとながめていて、なにかのことばや歌や町の名が心にひっかり、それでPCに向かってgoogleの検索窓に文字を打ち込むという行動は私もしばしばしているし、現在のテレビとインターネットの関係を象徴してもいるのだろう。それにしてもテレビというメディアの驚くべき影響力と浸透力。
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by hatano_naoki | 2006-11-19 08:14 | 日日
「アンコール遺跡を楽しむ」改訂作業最初の壁
改訂のために全文を読み直し、すこしでもおかしなところをマークしていった。
おかしなところというのは、
1)単純な書き間違い、誤字脱字
2)私の知識が足りなかったか、誤解して書いたためにまちがっているか、不正確な表現
3)書いた当時は間違いではなかったが、現時点での最新の知見から見て間違いである、あるいはそうは断言できない語句
4)時間の経過によって記述が古くなった道路状況、治安などに関する部分
などのことだ。最後の項目については、私がしりえない最新の情報を入手しなければならない。
結果からいうと、細かい部分もふくめて数十箇所もの修正が必要なことがわかった。これらの修正は内容的にはそれほどの手間ではないが、行数を変化させないように修正しなければならないという注文がつく。
さらに文中のコラムを一新したいという思いもある。この場合、そうとうの時間が必要だ。コラムを新たに書くかどうかが最初のポイントになりそうだ。
私にとって改訂という作業ははじめての体験であり、それゆえにとても刺激的だ。改訂を重ねて進化する本の著者になりたいものだ。
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by hatano_naoki | 2006-11-17 22:52 | カンボジア
沖縄勉強ノート(87)大林太良著「葬制の起源」
ひとはなぜ、死者を葬るのか?
沖縄の風葬について調べていくと、いったい沖縄における風葬の起源はなにか、その意味、どのような死生観のもとに行われたものかといった疑問が起きる。風葬についての文献を探していると、大林太良著「葬制の起源」(角川書店)という本があった。この本は風葬の本ではなく、葬制そのものの歴史と意味について世界の全体を対象に考察している。すこし読んでいくうち、まずは葬制そのものについて最低限の理解をしなければならいことに気がついた。
「葬制の起源」は大変におもしろい。しかしのその内容は濃くて、とても一気に読み通せるようなものではなかった。すでに書店では買えず、古書店(インターネットもふくめて)で手に入れるしかない。私は国会図書館でみつけた。本書では、葬法とは結局のところ死体の破壊あるいは保存であること、アフリカのある地域では農耕民の葬法には死者との関係を維持していこうとする態度があり、一方で狩猟民や遊牧民の葬法には死者の霊をおそれ、すみやかな断絶を願う態度があるとするレオ・フルベニウスの見解が紹介されている。私自身についていえば、死者を忌み嫌う私を、死者を愛惜し、死者と自分とを連続的にとらえようとする自分が凌駕しようとしている。それは不正確だが感情的に納得できる表現をするなら、西欧的な自分をアジア的な自分が凌駕しようとしているということでもある。沖縄の葬法、葬制とその背後にある死生観や他界観を理解することは、沖縄の重要な一部を理解することになるはずだ。
要するに、まず基本的な枠組みを知り、かつ(現時点で)どの研究者が信頼するに足り、誰が頼りにならないかについての学問の世界のレベルでの常識を知ることは、学問の埒外にいる人間にとっても必要だというふうに思う。
いずれにせよ、ひとがひとを葬ることについての考察というものは予想外に面白くまた示唆的だ。

12月12日の追記。
ようやくこの本を読み終えた。読んだ動機は沖縄の風葬というものの世界の葬制の中での位置を知ることにあったのだが、自分なりの回答はまず、沖縄の風葬を異様でショッキング(で土俗的)なものと受け止めるのはそれほど正しくはないということ、葬制というものは文化の由来や生成の過程をタイムカプセルのように保存する機能があることであり、副産物としての私(そして現代に生きる私たちの多く)がいかに私から遠ざかって生きているかという感慨だった。
また世界におけるいくつかの他界観の類型とその由来、意味は、沖縄を理解するうえで重要な情報であると思った。
1ヶ月のあいだ死者のくにをさまよったあげく、ようやく生ける者のくにに戻ってきた。さて、これから沖縄とどのようにして付き合おうか?
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by hatano_naoki | 2006-11-17 21:25 | 沖縄勉強ノート
国際ボランティアセンター(JVC)水曜講座
15日の夜、国際ボランティアセンター(JVC)の水曜講座「カンボジアの農村から」を聴きにいった。
カンダル州で農業支援を行っているJVCの山崎勝さんの報告。6年にわたってカンボジアに住み、カンボジア女性と結婚したという山崎さんの報告からは、JVCの活動地域における農村の現実がリアリティをもって伝わってくる。
その一部を紹介すると、現在カンボジア国民の7割が農民である。もともと主食である米の自給率は100パーセント以上あった国だが、内戦期に自給率が低下していた。その後、1995年になって再び自給率が100パーセントを超え、現在は120ないし130パーセントくらいだという。マクロ的には喜ばしい状況ともいえるが、実際には農村部で開発に起因する問題が起きている。農民がさまざまな理由で農地を失う状況が起きている。それらは基本的に社会の不公正に根ざすものだ。おおまかにいえばこういう内容だった。
ここからは私の感想。カンボジアの農村に開発優先の思考が入り込み、その自給的・閉鎖的な特性が失われつつある。精神世界としてはある種の"繭"であり、共同体のしくみとしては護送船団的であったカンボジアの農村はずるいルールによって運用される競争に参加させらされることになった。当然のことだが弱いものは脱落し、ごく一部の目ざといものは上昇する。こういう無残さはカンボジアの旅を通じてしばしば感じてきたことだ。
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by hatano_naoki | 2006-11-17 07:10 | カンボジア