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思考の星雲(1)
d0059961_2038546.jpg私の内部にある思考のメカニズムを考えてみると、その始まりにあるひとつの類型は、星を生み出す馬頭星雲(the horsehead nebula)のような混沌とした状態だ。
こうした混沌は時間が経って収斂していけばそれなりにまとまった、首尾一貫したアイデアや一連の小さな論理になるかもしれないが、そのスタートの状態というのはぼやっとしたキーワードらしきものの羅列であったり、訴えたいあるものが怒りの姿をとっていたり、あるいは悲しみのかたちをとっていたり、なんらかの図形、色、あるいは風景といったビジュアルなものであったり、ようするに明確なすがたを持っていない。
私にとっては、思考のはじまりは多くの場合、ある種の感情として現れる。その感情には由来と意味があるはずだ。そこでそれらを探す旅に出る。論理的に降りてゆく。すると自分の感情の原因とそこから引き出されるある思考の原型が見えてくる。
こうしていくらか冷静に自分の思考回路を"ドライブ"してゆくと、その先にようやく他人に説明してそれなりに納得してもらえるかもしれない思考の(暫定的な)結論が見えてくるわけだ。ただし、個人的な見解だが、こういうプロセスから吐き出されたひとまとまりの思考にはいささか鮮度が失われている。自分としては原初的な星雲状態に近い思考が好きなのだ。そうした思考は論理としても表現としても稚拙であり、他者への伝達力も低いが、自分の感情には近く、私を触発してそれらのことばを生み出すにいたった源に距離的に近い。つまり生々しい。
ところで、こういう"思考の星雲"を心の中にとどめておくか、自分なりに自分の内部において洗練していくか、また文字や話し言葉をふくむなんらかの方法で表現するかは、そのひとの思考にとって分かれ道になるように思う。私にとっては、直接的であれ間接的であれ、なんらかの表現を通じて"思考の星雲"を自分の心の中の定位置からなるべく早めに切り離す方法をとってきた。つまり、表現することは"思考の星雲"を自分から切り離して旅に出してやることを意味する。その次にはある程度客観視できるようになった"思考の星雲"をあれこれひねくりまわして、それが何を意味しているのかを考える。
私は多くの場合、短い文章をインターネット上に書き留める(つまり自分の内部にある、自分と癒着した表現から他者の視線にさらされるであろう場であるインターネット上に投げ出す)ことによって"思考の星雲"を意識的にも自分から切り離してきたけれども、短い文章を書き留めるという作業がそこで終わるなら私にとってはたいした意味を持たない。その先が、つまり断片的なアイデアや思考のかけらをジグソーパズルのように組み合わせて、もっと大きな何物かを組み立てていくことが、私にとってはもっと大切なことのようなのだ。
感情の行方が私の未来を指し示し、論理がそれを正当化しようとして追いかける。いくつもの矛盾をふくむ多様な思考の全体が、私に豊かさを感じさせ、自分が生きていると感じさせる。

写真:星のゆりかご、馬頭星雲。copyright: NASA and STScI
素晴らしい写真だ。
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by hatano_naoki | 2007-01-31 20:08 | 日日
HP電卓
d0059961_784037.jpg部屋を片付けていたら、電卓が出てきた。HP12Cといい、あまり一般的ではないが知っているひとは知っている逆ポーランド記法を採用した金融電卓である。うれしくなってしばらくキーをポチポチと叩いていた。
HP(Hewlett-Packard)社の電卓を初めて買ったときの喜びは忘れられない。それはHP41CVという、電卓と呼ぶのがためらわれるほどの機械だった。なにしろ外部記憶装置としての磁気カードライター/リーダー、書籍として出版されていたプログラム集からバーコードで印刷されたプログラムを読み取るためのバーコードリーダー、感熱プリンタといった周辺機器がそろえられていただけでなく、ユーザーの開発した多数のゲーム(1行のディスプレイにキャラクターで表示される実に知的なゲーム群)すらあって、それはひとつの世界を形成していた。値段は今のパソコンほどもした。
HPの電卓を特徴づけていた要素のひとつは、その数値の入力方法でだった。RPN記法(Reverse Polish Notation)というその入力方法は合理的ではあっても独特といえば独特であって、好き嫌いがあったかもしれない。
手で触れて操作する機械にとっては、その触感とか操作感は重要な要素だ。簡単にいえば快感をえられる機械がいい機械だ。その意味でHP電卓の操作感、特にキー形状やそのタッチはもっともセクシーな種類に属すると思う。
それでは最近の機械でどれがセクシーか?
すぐに思いつかないのが悲しい。

写真:HP12Cの入力キー部分
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by hatano_naoki | 2007-01-28 20:25 | ネットとデジモノ
沖縄勉強ノート(106)「中国化」していった琉球王国
現時点で、私がイメージする琉球王国の姿にもっとも近いと思われる記述を赤嶺守著『琉球王国』(講談社選書メチエ)の中にみつけた。
その骨子は次のようである。
・琉球王国は島津侵入後に「中国化」した。
・薩摩も幕府も琉球をめぐって中国とのあいだに摩擦が起きることを避けようとした。島津は琉球が中国を後ろ盾にして背くことを警戒していた。
・これに対して琉球は清朝を後ろ盾とする独自の国家体制を構築し、対日・対中関係をバランスさせようとした。(つまり両属的状況を積極的に利用して独立を保とうとした)
・王府は自発的に中国化を進めることによって琉球が中国の属国であることをアピールし、薩摩・幕府を牽制しようとした。
・幕府に対する服属儀礼である「江戸上り」に際して薩摩は中国風(つまり異国風)の風俗を装うように命じ、中国に朝貢する異国からの使節であることを強調するようになった。これは将軍の東アジアにおける対外的権威を高まる効果を期待したものだ。王府はこれを自国が中国の属国であることをアピールする場として利用していく。
・1712年には薩摩は琉球王に再び「中山王」を名乗ることを許し、異国化政策を進めた。

現代沖縄の「中国の影響を受けた」とされる文物、「沖縄が日本文化と中国文化を柔軟に受け入れて新たな沖縄文化を作り出した」という見方について、それらを全否定するものではないけれども、沖縄に今も存在する中国的な匂いというものが、政治的・意図的に作り上げられていった側面を持つことが明快に述べられている。これは私の漠然とした感覚をきちんと裏付けてくれる効果があった。
こういうことである。私の憶測は「沖縄の沖縄らしさは幾度も作り上げられてきた」というものだった。まず島津侵入後の「異国化」があり、戦後には「ハワイをイメージさせるリゾート化」があった。どちらも人工的な、イメージの具現化が行われた。意図的で政治的なイメージ形成。

「いろいろな外来文化をしなやかに飲み込んで生まれたごちゃまぜ文化の沖縄」という訴求は、私にはどうも落ち着きが悪く感じられる。
そういう側面もあるだろうが、沖縄とは実に地政学的・境界的存在であって、両属的であることは沖縄の本質的な属性だった。なんという示唆的な存在。

1月31日の追記。
琉球の中国化が自然な文化流入の結果であるだけでなく、王府による政策的側面を併せ持っていたというのはなかなか刺激的な見解だ。一方、琉球の"日本化"は13世紀に始まったとみていいようだ。仏教が日本の禅僧によってもたらされたのが13世紀後半。15世紀半ば、第一尚氏王朝の尚泰久王の時代以降に本格的に広まった。
また15世紀後半以降、那覇には博多や堺の商人が多く滞在し、一種の日本人町を形成したのではないかと『琉球王国』に述べられている。琉球を拠点として活動し、その後土着化した日本人もいたという。
もうひとつの"日本化"は琉球処分以後に政治的にかつ強圧的に進められた。琉球処分以降の沖縄の状況については今後の宿題としたい。
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by hatano_naoki | 2007-01-28 20:00 | 沖縄勉強ノート
沖縄勉強ノート(105)カンボジア、明、琉球
カンボジアから出発して最近は沖縄へと傾斜している私は、明という大国(およびその前の元、その後の清)を改めて意識することによって、カンボジアと沖縄(琉球)をひとまとめにして、明をめぐる秩序という枠組みの中で同時に扱うことができそうだと思い始めている。
もちろん当時のカンボジア(アンコール期からポストアンコール期)と琉球(三山時代から統一琉球王国)とは別の国であり朝貢国であったこと以外に共通点はないかもしれない。
私が触れることのできたカンボジア研究のわずかな一部分からは、これまでの研究の中に朝貢国としてのカンボジア、中国とカンボジアの関係という視点で、カンボジアの歴史を読み直すという試みを発見することはできなかった。実際にはこういう研究はすでに行われていると考えるのが正解なのだろうが、そうであるならばその成果の一部でも読んでみたいものだ。
私の思い込みかもしれないが、カンボジアの歴史研究において中国との関わりが軽く扱われているように思えてならない。
現代のカンボジアの経済の少なからぬ部分が中国系の人々によって支配されているのと同様に、アンコール時代の経済もまた中国人によって支配されていたのだろうか。中国人が王権の奥深くまで入り込んで政治の一端(あるいは中枢)を担っていたのだろうか。琉球における中国人の動きを見ると、彼らは技能集団としてさまざまなサービス(外交やそれにともなう文書の作成、航海術、そしておそらく建築技術)を提供することに徹し、王権を支えた高位の中国人たちですら、実務派の官僚として働き、政権を奪取するような政治的な動きがなかったようである。アンコール期のカンボジアにはこうした中国人の技能集団によるサービス提供はなかったのだろうか。
明が海禁・朝貢政策をとる前後からカンボジアではポストアンコールへの胎動がはじまっていたようであり、そこにはなんらかの関係があると見ていいのだろう。13世紀あたりからあとのカンボジア、明(そして清)、琉球を、今一度整理しながら見直していたいと思った。
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by hatano_naoki | 2007-01-27 09:43 | 沖縄勉強ノート
冬の陽(ひ)
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by hatano_naoki | 2007-01-26 19:37 | 写真日記
浅草むぎとろ
d0059961_18195630.jpg昼前、久しぶりに『浅草むぎとろ』に行ってみた。お目当ては昼限定のバイキングである。入口脇に置いてある壷に千円札一枚を入れて奥に進み、まず黒いお膳を取り、次にご飯茶碗に熱々の麦飯をよそる。大きな器になみなみと入ったとろろを好きなだけかけ、おかず一品、玉子焼き、漬物、味噌汁、お茶などを次々にとって席に着くという段取り。すべて食べ放題なのもうれしい。お茶うけもサービスしてくれる。個人的にはもうすこし甘いとろろが好きだが、これはこれでさっぱりと食べられる。
『むぎとろ』のウェブサイトでは
「とろろに使う山芋の種類は非常に多くありますが、当店で使っているのは通称“げんこついも”と呼ばれているもので初代主人の中島太蔵が全国行脚の末秋田県の山間地でのみできるこの芋と出会ったのです。山芋の中では最高級のもの。通常の山芋は1年に2回獲れますがげんこつ芋は5年も地中で育ちようやく料理に使うことができます。暫く同じ畑は使えないほどに滋養を大地から吸いとってしまうのですからまさに凄い芋なのです。とろろ料理を研究した結果、現在ではお料理に合わせ、やまといも、げんこついもを使い分けて美味しく皆様にお出ししております。」
と解説している。他にもいろいろ書いてあって、このサイトでとろろいもの物知りになれる。
おなかいっぱいとろろを食べてしごく満足。下町はなごめる。ついでに吾妻橋から隅田川を一瞬だけ見て、銀座線に乗った。
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by hatano_naoki | 2007-01-25 18:33 | 日日
沖縄勉強ノート(104)本土の遊廓
辻遊廓がどれほどユニークな遊廓だったかを知るには日本本土の遊廓のことをしらねばならないと思っていたが、『洲崎遊廓物語』(岡崎柾男著)という本をみつけた。
それによると、官許の遊廓の起源は江戸の吉原に始まるようだ。
元和4年(1618)、それまで市中にちらばっていた私娼を現在の日本橋人形町付近に集めた。一説には、吉原の名は付近が葭(よし)の茂るじめじめした土地であったので葭原と呼ばれ、やがて吉原と呼ぶようになったという(異説もある)。
当初の大きさは二町四方だったという。
吉原ができるとそれ以外の私娼は禁止されたが、実際には湯女(ゆな)風呂が多数あった。しかしこれらは明暦3年の「振袖火事」後に取り潰されてしまう。また岡場所(私娼のたまり場)は市中に160カ所以上もあったという。こうした場所は社寺の門前に多くあったらしい。また各街道の出入り口となる宿場(品川、千住、板橋、内藤新宿)には飯盛女と呼ばれる女郎がいた。
おそらく明治以降の時期の話だろうが、娼妓の生活がつぎのように書かれている。
起きるのは午後の4時か5時。
大半の娼妓は大部屋で寝起きしていた。
午後5時か6時に食事(朝食に相当する)をとる。風呂に入り、化粧をし、髪を結い、衣裳を着ける。
7時か8時ころ、奥の衝立の前に稼ぎの順に居並んで客を待つ。
客をとる合間に夜11時か12時ころ、食事。
娼妓は1日に何人も客をとった。一昼夜で十数人という記録もあるという。
午前2時をすぎるとなじみの客の部屋にいくが、その後も別の客をとった。
朝6時ころ、客を送り出し、8時か9時ころに食事。
その後に睡眠をとったのだろう。
興味深いのは、妓楼側が娼妓の脱走を常に警戒していたこと、娼妓の借金の扱いがあいまいで、搾取の意図が明確だったこと、1日に多くの客をとっていたことだ。
これも面白いことだが、明治33年に娼妓が自由に廃業できるとする判決がだされ、また救世軍や他のキリスト教団体が娼妓の解放運動を進めて一定の成果を挙げていたこと、その後の軍国主義への傾斜にともなってこうした動きが衰えていったこと、また明治の初期から中期にかけては娼妓に対する差別意識は低かったと考えられることだ。
帝国主義化、軍国主義化の流れの中で何がおきたかを改めて考えさせられる。
また、こうしてみると、辻遊廓も苦界にはちがいなかったが、そこには一定の温かさが存在していたようにも思えてくる。辻ではジュリが1日に多くの客をとることはなかったようだし、客を選ぶこともできた。借金はきちんと返していけたし、生活そのものも放埓とはいいにくかった。むしろ地味だといっていいくらいだ。人身売買も性の搾取もあったが、サツバツとした性の市場ではなく、むしろ古代的とも思える階級意識、上の階層に対する従順さ、情緒と義理人情でで包まれていたように見える。
辻遊廓ができたのは1672年とされているから、吉原ができてからしばらく後のことだが、吉原の例にならって娼妓の集中管理方式が琉球に導入されたのだろうか。
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by hatano_naoki | 2007-01-24 19:18 | 沖縄勉強ノート
沖縄勉強ノート(103)チャンプルー文化?
首相官邸のウェブサイトに「戦後沖縄を代表し、「チャンプルー文化」とも称される本市の個性的な文化は(略)」という文言があった。
沖縄の文化をチャンプルー文化と表現することがあるが、この文中ではチャンプルー文化を「チャンプルーは、まぜる、かきまぜるの意味の沖縄方言。地域の伝統文化と異文化が融合してできた文化」と定義している。沖縄市を対象とする「国際文化観光都市 チャンプルー・ルネッサンス計画」で述べられているもので、内閣の「地域再生本部」のページにある。
計画の中核は「沖縄市ミュージックタウン構想」にあるようで、「本市はエイサー、民謡、琉球舞踊、京太郎、ウスデーク等、古来より継承されてきた伝統文化を育むとともに、戦後のアメリカ文化を取り入れた「オキナワン・ロック」をはじめ、ジャズ、島唄等、他地域とは異なる個性的な文化を創造・発展してきた。」とした上で、「音楽振興、音楽産業を担う人材の育成や雇用の創出により、音楽を軸とした観光のまちづくりを推進することへの期待は大きいものがある。そのためには、まちの至るところで音楽が聞こえてくる環境をつくることが大切(略)」と述べている。
一般のひとが書いているブログを見ると、チャンプルー文化の例としては、ゴーヤチャンプルー(伝統食材であるゴーヤと戦後に米軍が持ちこんで普及したランチョンミートが使われている)とか、タコライスがよく挙げられている。
チャンプルー文化ということばにはそれほど深い意味がなく、Aの要素と、それとは異質なBの要素が入ってひとつの状態ができている場合に使われているように見える。AとBが融合してCを生み出すにいたっていないか、Cが一応は生み出されているにせよ、その融合の水準がそれほど高くないというようなニュアンスを個人的には感じる。"止揚"にいたっていないわけだ。またこのことばの響きは状況に対して批判的ではなく、沖縄における"文化的混沌"を面白がっている気配があるように感じる。
チャンプルー文化ということばがいつ生まれたのかはわからないが、占領下でアメリカ文化が浸透していった時期に、それほど肯定的なニュアンスを含むことなく、かといって強い否定でもなしに、使われ始めたのではないかと思える。具体的には占領期のコザの状況がもっともチャンプルー文化的だとされていたように見える。
私個人はこのことばが好きではない。安易であいまいで判断停止的な表現であり、状況の本質を回避しているような気がしてならない。沖縄ねぇ、中国とかアメリカとか日本とか、ごちゃまぜだよ。という程度の認識。これもまた沖縄をめぐるステレオタイプの理解だという気がしてならない。
私が思うには、沖縄にやってきた文化はもちろん融合もし、新しい文化を生み出しもしたが、それぞれの文化は層のようになって沖縄の地に降り積もっている。そのような歴史のレイヤーは一部は溶け合いながらも、それぞれの独自性というものは、濃淡の差はあれ、それなりにしたたかに生き残っているもののように思う。
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by hatano_naoki | 2007-01-22 06:26 | 沖縄勉強ノート
貝葉写本
最初にカンボジアに行った1999年にシェムリアップで買った貝葉写本がずっと行方不明だったのが、突然に出てきた。
写本は幅20センチ、奥行き5センチ、厚さ2センチほどで、表紙にあたる部分は木製、本文にあたる部分はpalm leafを薄く削ったものを紙代わりにして、鋭い鉄筆でひっかくようにして文字を書いてある。文字の部分には墨がしみこませてある。表紙・裏表紙と本文のすべてには穴があいていて、細い紐が通してある。英語ではPalm Leaf Manuscriptsというらしい。
カンボジアの古い時代の書物はこうして作られていたが、その性質上虫に食われたり腐ったりしやすかったためにすべて失われてしまった。私の手元にあるものがいったい何を記録したものなのか、いつの時代のものかはわからない。
山口大学のウェブサイトには、貝葉(貝多羅葉の略)は「古代インドで教典の書写に用いられ、タイでは今もなお主に仏教教典に用いられている。貝多羅葉は高さ15m、直径0.8~1mの木で、葉はちょうど扇子を大きくしたような形で、全体が蛇腹のように折った形になっている。木の葉の先端と茎の部分を切り、両側からあて木をしてはみ出した部分を化粧断ちし、一定の長さに揃える。これを炉の中で24~48時間ほど乾燥させる。これにとがった筆記具で文字を刻み込み、煤と油性の液体を混ぜたものを塗り込む。」と書かれている。
カンボジアの場合も貝葉写本と呼ぶようで、貝葉とは棕櫚(しゅろ) 科の熱帯植物だということだから、palm leafと貝葉は同じものだと考えていいようだが、少し調べてみたい。

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by hatano_naoki | 2007-01-21 20:20 | カンボジア
沖縄勉強ノート(102)沖縄音階
沖縄が沖縄らしく感じられる大きな要素は沖縄の音楽に特有の音階だろう。
ドレミファソラシドではなくドミファソシドで成り立っている沖縄音階は実に情感に溢れたゆったりとした雰囲気をかもし出す。
小島美子(こじまとみこ)著『日本音楽の古層』を読むと、大変に興味深いことが書かれていた。
それによると、沖縄音階は比較的あとの時代に沖縄諸島(本島とその周辺の島々)に広がったらしい。"比較的あとの時代"とは、おそらくおもろの成立の頃をさしているのだろう。
それ以前は日本本土と同様の音階(律音階)が使われていたらしい(日本本土へは奈良時代に雅楽や声明のメロディとして渡来した)。律音階は南から来たと推測されるが、これが最古層にあり、そのあと北からモンゴル・朝鮮とのかかわりが推測される民謡音階が伝来し、さらに南から(13世紀頃?に沖縄音階が南から来たと推測されるという。
面白いのは、著者が沖縄音階の沖縄群島への定着について「文化的影響などではなく支配的政治勢力とも関係のある何らかの民族移動と結びついていた」のではないかと推測していることだ。いずれにせよ、沖縄音階は最古層に位置するわけではないようだ。
また沖縄群島・宮古では支配的な音階がほぼ同様であり、宮古は沖縄群島から波及したと見られるが八重山だけは異なっていて、沖縄音階が他の音階とともに古くから存在した可能性があるとのことだ。この沖縄音階なるものは東南アジア・オセアニアに分布しているものが八重山にも波及したというふうに読める。そういえば宮古・八重山は縄文・弥生文化が波及しなかったことでも特徴的な地域である。
沖縄音階は海洋民の間に生まれたもので、その特徴は波の揺れにのるスウィング感にあり、そのためにスウィングの方向は上下であるという。これは感覚的に受け入れやすい説明だ。
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by hatano_naoki | 2007-01-20 07:51 | 沖縄勉強ノート