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今年何をするか(書くか)
今年何をするか(書くか)をあれこれ考えていて、だいたい次のような計画を立てた。

1)「アンコール遺跡を楽しむ」の改版
2)写真集「よみがえるアプサラ」(仮題)の制作
3)写真+文の本、「アンコール 造形とイメージ」の制作
4)「オンライン作品集」(仮題、私家版)の制作
5)「旅の記憶」(仮題、私家版)の制作
6)「神々は那覇の細部に宿る」(仮題)の執筆をはじめる
7)「カンボジア・ノートIII」のための取材をはじめる
8)ヴェネツィアの勉強を始める

「アンコール遺跡を楽しむ」の改版は、執筆後にだいぶ時間が経過したのでアップデートするのが目的だ。4月末頃までに書き終えるのが目標。
写真集「よみがえるアプサラ」(仮題)は舞踊家、写真家との3人チームでの制作。3月以降に本格化していくだろう。当面、構成の検討、カンボジア現地での撮影以外の部分の撮影から始める見通しだ。年内に本にするのが目標だ。
写真+文の本、「アンコール 造形とイメージ」は、構想自体は以前から持っていたのだが、少し進めてみようと思う。これまでに撮った写真のストックの"有効活用"という側面もある。写真集の商業出版はきわめてむずかしいが、トライしてみようという考えだ。そもそもデジタルフォトをウェブ制作の材料に使ってはきたもののプリントアウトしたことがほぼ皆無だった私は、自分としてはいくらか丁寧に印刷した数枚のモノクロ写真を見て写真集という形式もいいものだと改めて感じたのだった。私家版にすると百数十万円という金額がかかるので出してくれる出版社を探すしかない。写真だけでなく、その写真に関連した短い文章も巻末に追加する形式はどうだろうかと考えている。掲載する写真は100枚程度を想定している。主なテーマはタイトル通りアンコールの造形であり、典型的なアンコールの光景をもふくむものにしたい。これも目標は年内の出版だ。
1980年代の終わりからこれまでにネット上で書いてきた雑文をまとめておきたいとは、これもずっと以前から考えてきたことだ。ここへきて、とりあえず(卒論のように)数冊を手作りで作ったらどうかと思い始めた。パソコン通信時代にオンライン上で発表したエッセイなどをまとめた本「オンライン作品集」(仮題、私家版)がそれである。四六判、二段組で500ページを越える見通しだ。
「旅の記憶」(仮題、私家版)は私の最初の"出版物"である「ここでさよなら地球は林檎」、未発表の「韓国への短い旅」、それに(原稿が見つかれば)インドからヨーロッパへの旅の記録をあわせて一冊にしたい。こちらは全体で300枚程度だろうか。
私家版の本は、おそらく自分で紙を選び、プリンターで印刷して、製本だけを業者に頼むことになる。1冊あたりの製本単価は5,000円程度。Wordでテスト版を作ってみたが、紙さえ適当なものを選べばそこそこ本の雰囲気を持ったページになる。考えてみると、手元にあるさまざまな紙を装丁して本のかたちにして整理するというのはいい考えかもしれない。
「神々は那覇の細部に宿る」」(仮題)は、これまでの沖縄についての勉強を下敷きにしたカテゴリー不明の雑文だが、出版目標は2008年として準備を進め、一部は書き始めることにしたい。内容もスタイルも決まっていないが、那覇という都市を主人公とする本にしたらどうかと漠然と考えている。
「カンボジア・ノートIII」は現代カンボジア社会をテーマとする、私としては"意欲的"な本だ。この本も2008年出版が目標だが、取材と調査を今年からはじめるつもりだ。
「アンコール 造形とイメージ」については「カンボジア・ノート」のシリーズの中で写真編として位置づけるというアイデアもある。そしてその延長上でカンボジアに残る植民地時代の建築物の写真集、カンボジアの日常生活を記録した写真集、ポル・ポトの"遺跡"の写真集なども構想できそうだ。
ヴェネツィアをテーマとする本は2009年。まだ夢の領域にあるが、勉強をはじめることにしたい。
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by hatano_naoki | 2007-02-27 07:09 | 日日
ちょっとVenezia
d0059961_2235539.jpg私にとってカンボジア、沖縄に次いで「思考と学習の第三の極」になるかもしれないのがヴェネツィアだ。
しかしカンボジアはようやく入口あたりであり、沖縄にいたっては何もはじまっていないという程度であるのにヴェネツィアに手をつけるわけにはいかないと考えてきた。
しかしある理由から、ゆっくりと、かつおずおずとではあるが、ヴェネツィアに近づきつつある。
ヴェネツィアには著名な建築物が多いが、中でもサンマルコ寺院(Basilica di San Marco)とドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)は有名だ。これらふたつの建築の比較的詳しい図面を見つけて、じっくりと見てきた。またサンマルコ広場(Piazza San Marco)の図面も見ることができた。これらの図面を見ると、旅人としてヴェネツィアの町を歩くことの価値を最大限に評価したあとでも、旅人の目だけでは十分とはいえないと思えてくる。平面図には多くの秘密があり、その答もある。
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by hatano_naoki | 2007-02-24 22:12
沈丁花の香り
町で沈丁花の香りを感じた。
私の知る限り、もっとも感傷的な花の香りだ。
冬が終わろうとしている。
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by hatano_naoki | 2007-02-23 17:32 | 日日
北朝鮮の「危機産業」
さっきふと思ったのは、北朝鮮の瀬戸際外交なるものは、彼らにとって政治と外交の姿を借りた「産業」であり「ビジネス」なのかもしれないということだった。
原資は核への投資であり、危機というビジネス環境を整備することによって有利な交渉を進め、得られた利益は更なる危機の創出の原資となる。ここで重要なのは、こうしたビジネスの狙いが単に利益(相手国の援助や譲歩)を上げることにあり、自らの破滅を目指したものではないことだ。
こうしてみると北朝鮮という国家のビジネスモデルは、いくらか奇妙ではあるが、近年に現れてきた新しい国家経営の姿なのかもしれない。
一方で外国からの援助を前提に国家の経営が成り立っている、そういう国家がある。この場合、構造的な貧困や国内の反対勢力の跋扈など、根絶しがたい病根が存在し、その上に立っていくらか哀願し、いくらか脅しをかけ、多少の解決の努力をアピールできるなら、継続的な援助が期待できる。ここでも重要な条件は危機(あるいは危機の生まれる危惧)の創出である。
これらのモデルが生まれる背景はもちろん国家間の格差の絶望的拡大であり、歴史的経緯に根ざした"先進国"のある種の負い目であり、国家の特性であるエゴイズム(=自己の利益追求と他者への無関心)である。国家というものは自分さえよければ他人(=他の国家とその国民)はどうなってもよく、他人が気になるのは他人が自国に負の影響を与える(あるいは与える可能性がある)ときだけであると思う。
走り書きなのでいい加減だが、こんなことを考えた。
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by hatano_naoki | 2007-02-16 17:51 | 日日
本をこする男
最近、ある図書館でのことである。
四十代なかば過ぎだろうか、黒っぽいスーツに地味なネクタイの男が本を読みながら熊のようにゆっくりと短い距離を行ったりきたりしているのが目に入った。
歩きながら本を読むのは、それはそれで本の読み方のひとつだが、私が注目したのは彼の指先である。手にした本の開かれたページを、指を一本伸ばして指先でかなりの速さでこすっている。指で触れるというより、かなり強くこすっていると表現するのがふさわしい。男の目は作業に没頭している。
読んでいるのではなく、紙の汚れをとろうとしているのだろうか。
男は執拗に紙をこすり続けている。紙が破れるんじゃないかと気になってきた。
指はページの上の部分から下に向けて動き、次に上に向かって動き、また下に動き、上下に繰り返し慌しく動いている。やがて、男の指が書かれた文字の行をなぞっているのではないかと思えてきた。ページの右から忙しく指を上下させながら左端まで行き、ページをめくるとまた同じ動作を繰り返す。何行かもどったり、同じ位置で行きつ戻りつするときもある。
男は目で文字を追うと同時に、その行を指でこすっているのではないだろうかと思った。
私も本を読むとき、特定の行を指で追うことはある。ある語句を探したり、ちょっとわかりにくい文章を理解しようとするときなどに自然に出てくる。指が自分の意識を表現している。
男の動作からは、普通ならば瞬間的に現れるだけの無意識の行動が増殖して、彼の読書そのものを飲み込んでしまったようにもみえる。
男は周囲を気にする様子はない。彼はこれまでもずっとこうしたやり方で読書を続けてきたにちがいない。
周囲を見渡してみた。誰も彼の行動には気づいていないようにみえる。図書館は自分に没頭する場所なのかもしれない。
結局、私がそこにいた二十分ほどのあいだ、男は歩き回りながら本のページをこすり続けた。
私の前に現れた"本をこする男"は何かの寓意だろうか?
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by hatano_naoki | 2007-02-16 07:02 | 日日
[お知らせ] 第16回カンボジア勉強会
第16回カンボジア勉強会
2007年02月17日(土)13時半~17時、上野桜木・旧市田邸にて。

(1)『わたしが見たポルポト 』をめぐって 波田野直樹
  昨年秋に発売された馬渕直城著『わたしが見たポルポト』をご紹介し、その内容について考察します。興味のある方は本書を読んでご参加下さい。

(2)『真臘風土記』を読む 松浦史明さん
  上智大学大学院在学中の松浦さんに、中国人周達観によって書かれたアンコール期の貴重な記録、『真臘風土記』についてお話しいただきます。興味のある方は『真臘風土記』(東洋文庫507 平凡社刊)を事前に読んでおくことをおすすめします。

(3)お知らせ
 <クメール古典舞踊写真集 制作発表>
  日本ではじめてのクメール古典舞踊写真集の制作を計画中です。計画概要を発表します。
 <隔月刊誌 「トーマダー」のご紹介>
  プノンペン在住の井伊誠さんがカンボジアの「日常」を伝える隔月刊誌を発刊しました。創刊号をご紹介します。即売も予定しています。

詳しくはこちら
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by hatano_naoki | 2007-02-12 07:00 | カンボジア
カンボジア・ジャーナル
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『カンボジア・ジャーナル』という雑誌を出してみたいと思ってから何年か経つ。ウェブマガジンとしてやろうと思ったり、紙で出してみようと思ったり、いろいろ考えてはみたが、なかなか具体化できずに3年ほどが過ぎてしまった。
しかし何とか実現したいと思い、また動き出そうと思い始めた。
ウェブでやり、それをまとめて単行本にしたらどうだろうかとも思う。
基本的なイメージは以前と変わっていない。すこし硬めの内容で、現代カンボジア社会に関するジャーナリスティックな記事を中心にしたい。こういう記事を書ける人たちがどれくらいいいるかは分からないが、一度は編集人としての楽しみを味わってみたいものだ。

写真:カンボジアジャーナルを構想したとき作成した、雑誌の表紙イメージ。右の小さい方は、冗談で作った「ニューズウィーク」スタイルの表紙。
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by hatano_naoki | 2007-02-09 20:14 | カンボジア
思考の星雲(5)
d0059961_23395141.jpg日々を生きる私の基本的な不安は、拠るべき原理、原則、規範、大義が私の中に存在しているのかどうかがあやふやであることだ。もちろん、実際には私もまた何かに拠って生きているに違いないし、その正体はいずれ歴史の中で名づけられて時代の象徴的な呼び名となるかもしれないし、それはもしかすると新しい"思想"かもしれないが、私を支えてくれているようには見えない。
かつては私の中に科学の神と進歩・向上の神がいたようだ。このふたりの神は手に手を携えて人類を幸せに導くと語っていた。私が生まれ育ってゆく過程で、日本には高度成長という目前の希望があった。その先の未来は、たとえば子供向けの雑誌のグラビアには、ゴミひとつ落ちていない、清浄でつるつるして透明で静かな世界として描かれていた。あるいはそう思えた。思い悩むことはない、一生懸命に働けば金持ちに幸せになれる。
その後、映画『ブレードランナー』を見た私は別の未来を発見した。暗く、ごみごみとした未来である。それは結局のところ白人であるアメリカ人の描くペシミスティックなアメリカの未来像にすぎなかったのかもしれないが、私の内部にあった未来のイメージを劇的に変更する効果があった。こちらの未来のほうが現実に近いのかもしれない。
そして今思うのは、未来はおそらく光り輝くものでも、暗くごみごみとしたものでもないだろうということだ。今見えている未来は輪郭がはっきりしていない。幸せと不幸せの間の広大であいまいな領域に薄くひろがっている。未来とは、実は私たちの内面の行く末のことなのではないか。しかも、これから先、私たちは拠るべき思想を見失ったままで幾世紀も生き延びていかなければならないような気がしている。
繰り返すが、だからといって私が不幸というわけではない。不安なだけだ。不安は重くなったり軽くなったりするが基調低音として鳴りつづけている。
現代社会の特徴であるマスメディアの異様な肥大化によって私は日々たくさんの情報を受け取るが、世界をふくむ対象物のことが分かりすぎ、しかし実は何も分かっていないというジレンマの中に生きている。輪郭ばかりが強調されたそれらの情報を大量消費することが幸せだとは感じられないし、むしろ苛立ちを感じるが、一方で情報の枯渇をおそれてもいる。私は思想というストックにではなく、情報というフローに拠って生きているのかもしれない。実際、今現在の私の思考は、思想とはちがうものの周囲をまわっているような気がする。
こういう世界で私がどのように生きているかを考えてみると、当然のことだが、「時代の毒を食らって」生きていることに気づく。私は時代を映して生きている鏡にすぎない。それゆえに閉塞感があるが、自分が何かを作り出す、あるいは作り出していると感じるときにだけ、その閉塞を打ち破っていると感じられる。だから書くこともふくめて、何かを作り出す作業が私には麻薬のように必要だ。
いまさらだが、ここで言っている「思想」とは「体系的にまとまった思考の内容」ということにしておく。言い換えれば「思考の家」だ。その家を出て放浪する私は、実をいうとちょっと誇らしくもある。

写真:M27惑星状星雲 copyright(c) NASA
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by hatano_naoki | 2007-02-07 10:40 | 日日
沖縄勉強ノート(108)琉球処分以後の沖縄
琉球処分から地上戦の終結にいたる期間のできごとを表にして整理してみた。
そこからまず見えてくるのは、日清戦争を境に明治政府の対沖縄政策が大きく変化することだ。版籍奉還・廃藩置県が強行されたあと、親清派が多数を占める士族の抵抗をやわらげ、また清朝との摩擦を避けようとする明治政府は暫定的な旧体制温存策をとった。王は退位して(させられて)華族となり、王府の頂点は崩壊したが、王府の官僚機構は全体として温存されたし、社会体制にも手が加えられなかった。
日清戦争に日本が勝利すると、日本は沖縄の諸制度改革と本土との一体化に向けて動き始める。行政制度を内地と同様に改め(1896)、土地整理を行い(1899)、徴兵制をようやく実施する(1898)。日本への同化プロセスは徴兵制の完全実施(1907)によって一段落するとみていいだろう。
ところで、琉球処分以後の旧支配層の動きは興味深い。琉球処分までのあいだ、王府はひたすら交渉の引き延ばしを図り、また清朝の助けを期待した。処分が下されても清に対する期待は継続し、一方で反日的な動きとなってあらわれる。日清戦争で清が敗北してその助けを借りた王国の回復が不可能と知ると、支配層は一転して日本の権力にすりよるようになる。明治政府(直接的には奈良原知事)も日本への同化策を実行するにあたってこうした勢力を利用していった。
明治政府の進めたいずれの"改革"も大衆を救うことはなく、一方で旧支配層は土地の囲い込みや金融への進出などを通じて力を取りもどしていき、資本は彼らに集中し、独占的資本家として表舞台に再び登場する。
ところで、歴史を追う中で、王府時代も琉球処分後も、民衆を収奪したのが薩摩だけではなく、琉球王府もまた収奪する側にあったことを改めて知ることになった。温存された旧体制の役人は搾取を継続しただけでなく腐りきっていたようである。王府は日本との関係においては被抑圧者だったが、大衆にとっては間違いなく理不尽な強権をふるう抑圧者だった。琉球処分後も薩摩と王府による二重の搾取構造は、悪名高い人頭税もふくめてそのまま機能しつづけた。
沖縄人にとっては、日本化の流れがいかんともしがたい中で、自らのアイデンティティの危機をどう乗り越えるかが課題でありつづけただろう。大正期に入ると伊波普猷の"日琉同祖論"が現れ、この問題に決定的な方向付けを行った。この論の結果としての政治性は明らかであって、その後の沖縄は過剰な日本への同化、皇民化へと突き進んでいく。(被抑圧者の反応のひとつの類型である抑圧者への過剰適応がここでも見られる)
大正期に入ると社会主義的思潮が沖縄にも及ぶ。労働争議が起き、社会主義団体が設立されるが、全国的な左翼弾圧によって1930年頃までには収束してしまう。
その後は軍国主義一色となり、一挙に戦争へと突き進んでいく。
こうしてみてくると、琉球処分後の沖縄は常に激しく変化しつづけたけれども、日清戦争以降の日本への同化プロセスがもっとも激烈であったように見える。この時期に沖縄に君臨したのが奈良原繁だったのは偶然ではないだろう。

琉球処分の一側面は、領域国家として自国の境界を峻別しようとする日本と、それ以前の世界における弱小国家の生き方のひとつの類型であった両属状態を自国の生存に利用しようとする琉球王府のあいだの闘争の終末であり、そこにいたる過程は琉球にとって勝ち目のない闘争だった。結局のところ王府は状況に流されるだけで、自ら状況を作り出すことはできなかった。
被抑圧国家となることを回避することが生存のための最大の命題であったであろう明治国家は、その道しか選択できなかったかどうかは別として、結果として武力によって周辺国家を威圧しながら自らを遅れてきた帝国主義国家、植民地主義国家として位置づけていくことを選んだ。植民地となる危機を回避する手段が自ら植民地を持つ側に回ることだったとはなんとも皮肉なことだ。

琉球処分後の沖縄の状況をみていると、沖縄戦で起きたことがそれまでの歴史の帰結であり縮図であることがわかる。沖縄戦において日本軍は沖縄人を信用せず、スパイ視すらしたが、明治期を通じての反日的な動きや徴兵忌避に象徴される沖縄の不服従は、沖縄は信用できないという感情を日本政府や軍部に植えつけたことだろう。
明治政府が沖縄を日本に取り込もうとしたのはおそらく第一に地政学的要因で、その地理的な位置の戦略的重要性が鍵だったのだろう。これは今も変わらない。

メモ:松田道之(琉球処分官)
まつだみちゆき (1839~1882)
天保10年(1839)、鳥取藩士久保氏の次男として生まれる。後に松田家に養子。
広瀬淡窓によって1805年に豊後国日田にに創立された全寮制の私塾、咸宜園で学ぶ。高野長英や大村益次郎、清浦奎吾、上野彦馬などもここで学んだ。
京都で尊皇攘夷運動に加わり、明治元年(1868)に京都裁判所、のち京都府の官吏となる。明治4年に大津県令、同5年から8年まで初代の滋賀県令。明治8年(1875)から明治12年(1879)まで、琉球処分官として3回琉球に渡る。明治12年暮れ、東京府知事。在任中の明治15年(1882)、44歳で没。
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by hatano_naoki | 2007-02-05 20:16 | 沖縄勉強ノート
思考の星雲(4)
d0059961_21551410.jpg自分自身の思考のありようを客観的にとらえることはむずかしいけれども、セルフイメージとして語るなら、「考えられない」のが問題だ。それなりに考えようとするが、展開がなく発見がない。構造が見えない。考えることは好きだが、展開しないのがつらく、それゆえに考えを文章にすることもつらい。考える筋肉が脆弱なのだ。構造を見通せるような思考を夢見ていても、それがうまくいかないのは、ひとつはセンスの問題で、さらに決定的なのは思考の訓練が不足していることだろう。こういう私だが、延々と数千行を書いた末に、自分でもうっとりとする一行に出会えるかもしれないといまだに思っている。
切れ味のいい思考と鈍重な思考がある。切れ味のいい思考が好きで、そこを目指すべきだと思う。切れ味もまたセンスの問題だが、一方でトレーニングによってカバーできる部分がありそうだとも考える。それはどのようなトレーニングなのか?私の流儀では、それはすなわち凡庸ではない体験を繰り返すことでしかない。凡庸はダメだ。ここに私の可能性と限界がある。
思考はときたま感情と手を携えて煉獄と恍惚を通過する。思考とはそういうものなのだろう。そのとき、考えることは一種の闘争だが、レベルの低い闘争は唾棄すべきものだから、ひたすら高みを目指す。そして失速して墜落する。こういう繰り返しで日々が過ぎてゆく。

写真:超新星の残骸、かに星雲(M1)。メシエカタログの栄えある1番。copyright(c)NASA
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by hatano_naoki | 2007-02-04 21:45 | 日日