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レンズのないカメラを持つひと
古本屋街を歩いているとき、ひとりの男とすれ違った。
おそらく二十代だろう。スニーカー、だぶだぶのグレーのパンツ、よれよれの薄手のハーフコート。髪型は長くもなく短くもなく、乱れているともきれいに撫で付けているともいえない。彼女のいなさそうなタイプだ。首から下げたカメラがへその上あたりで揺れるのを左手で軽く押さえるようにしている。
なにかが奇妙だと思った。
すぐに気がついたのは、そのカメラにはレンズがついていないのだった。
ボディについているのはボディキャップだけのようだ。
男が持っているのはレンジファンダーのついたデジタルカメラだった。このタイプでは極端に薄いタイプのレンズもあるし、沈胴型のレンズもある。しかしそのカメラについているのは間違いなくボディキャップだけのようだった。
すれ違う一瞬、考える。この男はなぜ、レンズをつけないカメラボディだけを下げているのだろうか。最初に浮かんだ解は、みせびらかしているということだった。高価なそのカメラを買ったが、買えたのはボディだけだった。ボディだけでも十分に高価だったのだ。
つぎに浮かんだのは、彼がパフォーマーであって、レンズのないカメラを下げて歩くという路上パフォーマンスをしているという解だった。
その次に浮かんだのは、彼が精神にいくらか変調をきたしているのかもしれないということだった。
あるいは単にカメラを運ぶのに手に持ったかばんに入れるよりも首から下げる方が楽だということかもしれないし、レンズをつけるのを忘れて出てきてしまったのかもしれない。カメラボディだけを装身具として買ったのかもしれないし、カメラを哲学しているのかもしれない。あるいはそれはカメラではなかったのかもしれない。
振り返って信号待ちをする男の後姿を見た。普通といえば普通で、おかしいといえばおかしい。
たしかなのは、解は永遠にわからないということだ。
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by hatano_naoki | 2007-03-30 21:07 | 日日
GR digital work shop
d0059961_18255023.jpg田中長徳著「GR digital work shop」を読んでいる。読むというよりも耽溺しているというのが正確かもしれない。この本はなかなかよくできているし、文章もそれなりに読める。私がこれまでに愛読した「モノを愛でる書物」の系譜に属しているのは確実だ。それはたとえば私がずっと昔AppleIIeを買う前に読んでいたアップルIIについての本とかに似て、モノにまつわる精神にも言及してはいるけれども、深く深くモノあるいは道具そのものについて語っている。
モノについて語るということは、たとえば私がかかわってきたカンボジアとか、関わろうとしている沖縄とかについて語るのとはずいぶん違った世界を見せてくれる。まず軽々としている。それから留保や弁解がない。ストレートにモノについて語り、語られるモノがすばらしいという絶対的な了解のもとに成立する世界。そこでは複雑な世界を語ることから遠く離れて、純粋なモノと自己の関係を語れば済む。実にすっきりした透明な世界だ。そこではまたそのモノがすばらしいということを前提とする価値の体系が明快に存在している。神が生きている。だから救われる。
GR Digitalはとてもいいスナップカメラだと思うし、またその手に持つ小さな機械としてのセクシャルな雰囲気が飢餓感を誘う。ほしくて仕方がないが、今日はCaplio GX100という新機種が発表されてこれはこれで魅力的だ。

追記。
最近は大きくてゴロゴロするデジタル一眼よりもGRDやCalpio GX100といったコンパクトな高性能機に魅力を感じる。それは要するに旅が身軽になるだけでなく周囲から自分が突出する度合いが小さくなるからで、心理的にもずいぶん違う。目立たない旅人になれるのだ。
Caplio GX100は電子ビューファインダーが付けられるし、なかなか楽しいカメラのようだが、今のところはやはりGRDの方が魅力的に感じられる。これ1台で旅にでたらそれはそれは楽しいだろう。
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by hatano_naoki | 2007-03-28 18:40 | カメラと写真
沖縄勉強ノート(114)大江健三郎『沖縄ノート』を読みながら
大江健三郎著『沖縄ノート』を読んだのはいつだっただろうか。手元にあるのは2003年に出た新書の48刷だが、これは2冊目で、最初に読んだのはずっと昔、おそらく1970年代だったはずだ。
読みにくい大江の文章を改めて読みながら、まずこれらの文章が復帰前の1969年頃に書かれたことを思う。そして、文中に現れる多くの固有名詞や事件やそれらを含む時代について、前に読んだときよりも理解している自分に気づく。以前はなんにも知らなかったのだ。
そういう目で見ると、たとえば謝花昇と奈良原繁の宿命的ともいえるたたかいについての大江の語りも、「その通り」と思う部分と、いささかステレオタイプではないのかと思える部分とがあるように思えるし、自分の興味が謝花よりも奈良原を生んだ幕末の動乱期の思想、幕末の"志士"が明治国家の専制的な官僚に変貌していくメカニズム、あるいは幼年の明治国家がおどろくほどの速度で帝国主義化していくプロセスにあることに気づく。沖縄はいくども被害者、犠牲者、被搾取者となったが、有体にいって、私は沖縄の痛みを自分の痛みとすることはできないし、自分を加害者として定義することもできない。いわば、ただ呆然として立ち止まっているにすぎない。
それでは私は沖縄に対してどのような態度をとるべきなのだろうか。
私はまず、沖縄が黙示的存在だと思い、その真の姿に迫りたいと願う。なにが真の姿なのかといえば、それはきわめていいにくいわけだが、少なくとも憶測や妄想ではなくできるかぎり冷静に事実に迫りたい。あるいは、さまざまな目論見によって形成されたものと民衆の中に自然に生まれて受け継がれてきたものを峻別したい。誤解や思い違いをそのように指摘し、異様に肥大したイメージを本来の大きさに戻したい。一方でどのような言説もフィクションであるという意識が私の内部にあることを明示したい。私もまた真実という名のあらたな虚構を生み出すことになる。
いずれにせよ私の腕は細くて弱く、沖縄という実在を受け止めてそれを抱くほどの力はない。しかし自分の見聞と学習をできるかぎり正確に報告することを通じて、あるいはある種の"リバースエンジニアリング"を実行することで思考のからくりを明示し、それを読んだ誰かが批判的に読むことでさらに理解を深める材料あるいはきっかけを提供することはできるかもしれない。
『沖縄ノート』を読みながら考える。私は沖縄の「ひと」にまったくアクセスしていない。私は自分の中に沖縄という課題を設定してはいるが、そこに生きるひとを知らない。沖縄との関わりにおいて私は孤独であり、徒手空拳だ。途方にくれる。ガラスの扉を爪でひっかくような感覚が残る。
『沖縄ノート』から40年が経とうとしている。21世紀初頭における『沖縄ノート』にはなにが書かれるべきだろうか?
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by hatano_naoki | 2007-03-21 18:27 | 沖縄勉強ノート
沖縄勉強ノート(113)正確に書くということ
『カンボジア・ノート』を書いたとき思っていたことのひとつは、紀行的な側面と内容の正確性を両立させたいということだった。
ただ単に見聞を書きとめ、感想や感慨を述べるのはいやだったし、私をそのようにしむけるなにものかがカンボジアの歴史と社会にあったようにも思える。
そのために私はいろいろな意味でできるだけ正確に書こうと努めたし、できれば学問的な水準での正確性を保証しようとしたが、むずかしくて時間のかかる作業だったし、それによってある種の落とし穴にはまったようでもあった。しろうとはしろうととしてやるべきだったのかもしれない。しろうとがいくらか専門的な知識をふりまわすのは見ていて不愉快な場合が少なくないからだ。
これはカンボジアに限らないが、どんな分野でも、知見は日々更新される。大衆向けの本に書かれているのが一時代前の通説だったりすることもすくなくない。そこで最新の"正しい"知見を取り入れようとすると、今度はその分野における研究の潮流や、対立する仮説に関する全体の見取り図や、ときには学界における政治や、そういったさまざまな要素を知らされることになる。
また専門家のあいだにはある常識があって、たとえばいまや完全に否定された論を持ち上げることは危険ですらあるだろう。最新の知見が正しいとは言い切れないということもある。そしてまた、ある分野における主たる潮流があとの時代からみれば取るに足らない愚かなものだったということがさまざまな分野で起こっている。
こうなると、書くのがむずかしくなる。あるいは幾重にも補足し、注釈し、引用し、言い訳するようなわかりにくい文章が出来上がりかねない。安易で安全なのは迂回し、回避してしまうことだろうが、それでは意味がないというのが私の考えだ。
沖縄に関しても同じわだちを踏みつつあるが、できるだけ記述の正確性を担保したうえでエッセイや紀行を書こうとする姿勢が私のスタイルになりつつある現状では、そこに踏み込んでいくしかない。それが真にスタイルと呼べるものになればいいのだが。
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by hatano_naoki | 2007-03-21 03:01 | 沖縄勉強ノート
沖縄勉強ノート(112)被抑圧者に関するメモ
以前、フランスの植民地となる前のカンボジアがシャムとベトナムに対して両属的状態にあったということを知ったとき、これをカンボジアの悲劇としてとらえる見方が一般的だと思えたし、私自身も両属状態にある国家をなすすべのない無力な被害者として理解していた。また両属状態にあったカンボジアには国家主権が事実上存在せず、隣国の支配者たちのいいなりになっていたと受け止めてもいた。しかし傀儡とか両属とかの実体はそれほど単純ではないのかもしれない。
16世紀以降の沖縄の運命をみていると、16世紀には次第に強まってくる日本の支配力とでもいうものの予兆に対して必死に舵を切ろうとする努力があり(それはあるいは無策ゆえの傍観に近かったかもしれないが)、島津の支配が始まった17世紀には一種の"ナショナリズム"の高まりがあったようである。この"ナショナリズム"は島津の黙認あるいは了解のもとにおける限定的なものだったのだろうが。
実際にはナショナリズムということばはおそらく強すぎ、島津支配下でのアイデンティティの模索というべきかもしれない。またおそらくこの時期に王府と島津の癒着のようなものが成立して、その結果それまでの王府による搾取に加えて島津による搾取が上積みされる、あるいは島津による過大な要求に乗じて王府もまた肥え太るような権力の二重化が起こったのではないか。これはいまのところまったくの推測である。
この推測は、琉球処分後に起きたという旧支配層の復権ともいうべき現象を念頭においている。
島津支配下における王府は被抑圧者ではなく、島津と歩調をあわせて大衆を搾取する側に立っていたのではないか。明との関係は形式的であり、被抑圧的でなかったのは明白だ。つまりカンボジアのそれとは異なって、琉球の両属は一方に対しては形式的、もう一方に対しては隷属的(植民地的)だったといえる。
※以前も書いたが、私は傀儡、植民地といったことばについてその定義をはっきりと理解しておくべきだろう。そしてそもそも時代によって変遷する国家像について理解しなければならないだろう。
ところで、搾取構造からみるとこういう言い方になるかもしれないが、これもまた状況への適応あるいは解決という側面もあるにちがいない。つまり王府の生き残り策であり、日本とのあいだに一定の隷属的関係を結んだあとで、明との関係を見据えつつ、部分的な自治の回復、部分的な権力維持を微妙なバランスで模索したのではないだろうか。
私には隷属的状態にある国家の一般的な行動パターンについて述べる資格はないけれども、彼らは手も足もしばられた無為の存在として生きるのではなく、状況の中で自らの存在のありかたを問いつつ、生き残る方法を探すとともになんらかの合理性を持とうとするのではないかと思える。
沖縄の場合、島津支配期、沖縄県設置後の明治初期、そして米軍支配期の3度にわたって外部の力による支配の下にあったわけで、このそれぞれの時代に沖縄の為政者と民衆がそれぞれどのような意識をもちえたか、どう行動したかを整理しておくことは無駄ではないだろう。
一方でこうした他者による支配の下ではある種の絶望が存在したはずだ。これに対する反応は反抗や抵抗でなければ享楽や自閉的沈潜へと向かうに違いない。沖縄では民族意識に根ざした武力による抵抗は起きなかったようである。沖縄における文化的隆盛期の時代背景も確認しておく必要がありそうだ。
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by hatano_naoki | 2007-03-19 00:30 | 沖縄勉強ノート
PA001便のこと(1974)
書店をさまよっていたら『AIRLINE』という月刊誌の特集が目に入った。
『栄光の001便物語』というタイトルがついている。それで思い出したのは、私も001便に思い出があるということだ。
私が乗ったのはパンナムのPA001便で、羽田からデリーまでだった。1974年秋のことである。夕刻に飛び立って、途中、香港とバンコクに降りた。
機中の様子はよくおぼえている。私の席は機体の後寄りで機首に向かって左の窓際だった。乗客はごくわずかでがら空きの状態だった。機体が滑走路を離れるとき、反対側の窓際にいた若い白人の男女がキスをするのが見えた。私から近い席にはアジア系の若い男が緊張した様子で座っていた。白人の体の大きなスチュワーデス(当時はスチュワーデスだった)が彼に「お前はどこの国の人間でどこに行くのか」というようなことを横柄な態度で聞いていた。
その2年前に韓国に行ったのが私のはじめての海外旅行だったが、パンナムのPA001便での出発は海外ひとり旅のはじまりであり、またはじめての国際線で、はじめてのジェット機でもあった。私の機体はジャンボだったが、ジャンボはすでに1970年から就航しており、すでにめずらしいものではなかったはずだ。
1974年という年は海外旅行の自由化から10年目であり、海外に旅行した日本人はおよそ233万5千人。ちなみに自由化初年度の1964年には12万7千人、私がはじめて海外に出た1972年には139万2千人。この年、海外旅行者がはじめて100万人を越えた。2005年には1740万3千人に達する(JATAによる)。つまり1974年は日本人の"大航海時代"が本格化しはじめた時期だといっていいだろう。成田はまだ開港していない(1978年開港)。
d0059961_10413857.jpg私が乗った1974年の時点ではパンアメリカン航空(Pan American World Airways)は長い歴史を持つ大きくて有名な航空会社であり、アメリカのナショナルフラッグの風格を感じさせた。会社の設立は1927年。最初の路線はキーウェスト~ハバナ線だったという。映画"2001: A Space Odyssey"(スタンリー・キューブリック監督。1968年。邦題『2001年宇宙の旅』)ではスペースシャトルにパンナムのマークが描かれていた。その後経営が悪化したパンナムは1985年に日本から撤退、1991年に消滅する。
私はPA001便を選んだわけではない。インドに行くために安い航空券を探し、貸し机ひとつで営業している怪しげな旅行代理店から買ったのがたまたまパンナムだったのだ。料金はたしか21万円。当時、安売り航空券はそれほど一般的ではなかったようで、これでも安かったのだ。その結果、私はわずかに残った300ドル(当時のレートで約9万円)を持って旅に出ることになった。
PA001便の001便たる所以は、世界一周便であったからだろう。パンナムが世界一周便(westboundが001便、eastboundが002便)の運行を開始したのは1947年のことで、その路線はwestboundの場合ニューヨークからはじまってサンフランシスコ、ホノルル、ウェーク島、東京、上海、マニラ、バンコク、カルカッタ、イスタンブール、ロンドンを経由してニューヨークに戻っていたという。なぜ世界一周便が計画され実行されたのか。それはおそらくこの便の収益に対する期待からではなく、この便の象徴性(=航空会社としてのプライド)に由来しており、19世紀的な、あるいは20世紀初頭に生きていた旅に対する憧れを具現化していたように思う。
私が搭乗する日も、羽田空港の出発掲示板のdestinationの項目には、"round the world"の文字が輝いていたはずだ。この言葉は飛行が地球を周回しながら無限に続くようなイメージを私にもたらした。
若い番号は優位を示すシンボルである。それはスポーツ選手の背番号でも乗り物の運行番号でも、それ以外の世界でも普遍的な現象だが、1番はその極致であって、もっともすぐれたもの、選ばれたものに与えられる魔法の数字だ。PA001便に乗った私自身にはなんの優位性もなかったけれども、それでもなにか特別の世界に旅立つ装置であるかのように感じられたのだった。
001便による世界一周。それは国際便に乗ることが私にとって宝石のように輝く貴重な体験であった時代、そしてまた世界一周という幻想的で観念的な旅のイメージが生きていた時代の記憶でもある。海外旅行の大量消費が始まると私にとっても海外は身近になり、一方でその便が何便であるかなどどうでもよくなっていった。私の中で001便はもはやマジックナンバーとはいえない。飽食の海外旅行時代の今、001便に関する記憶はひとつの時代の産物となった。

写真: "2001: A Space Odyssey"に登場するパンナムのスペースシャトル。
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by hatano_naoki | 2007-03-18 08:04 | 目撃・現代史
『アンコール遺跡を楽しむ』改訂版を書く(3)
テキストの部分についてはだいぶ整理が進んできた。進捗率は70パーセントくらい。
テキストがかたまったら写真を選びなおし、地図と遺跡の略図を書く。読書案内もあったら便利だろう。私のウェブサイトについても詳しく紹介したほうがいいかもしれない。
地図と遺跡の略図を書くのにかなりの手間がかかりそうだ。
アンコール遺跡のキーワードについての短いコラムを30本くらい書くのもいいかなと思う。
テキストを手直ししていて気がつくのは、この三、四年のあいだにアンコールとカンボジアに大きな変化が起きているということだ。治安が劇的に改善された。道路が良くなった。遺跡周辺での地雷除去が進んだ。そして観光客が激増した。
前の本では「カンボジアは危険だから気をつけるべきだ」と書いた。今回、危険についての記述はほとんど消えるだろう。
これはつまりツーリズムの勝利ということだ。ツーリズムは金を落とす。ツーリズムを促すものは強化され、さまたげるものは排除される。ツーリズムが人々の生活を潤しはじめたのは事実だが、それ以上にさまざまな負の側面が顕在化してきている。金は金持ちに集まり、彼らをもっと豊かにする。彼らは金儲けのためならなんでもやってしまう。貧乏人は呆然と立ち尽くすだけだ。そしてもっと貧乏になる。
次の本は普通のガイドブックに近づくだろう。カンボジアから冒険は失われた。今は誰でもどこにでも行ける。カンボジアの観光化はこれからとことん進むだろう。資源を食い尽くすまで、だ。無残な感じがする。
そういう状況を映して本から熱は失われるに違いない。
しかしそれも時代の変化というものなのだろう。無残な変化というものは世界のあちこちでいくらでも起こったし、これからも起こるだろう。状況が愚かで残酷だとしたら、それは現代に生きる私たちが愚かで残酷だということを意味するに過ぎない。
こう書きながら、私はこれからカンボジアという対象とどんな関わりを持っていくのだろうかと考えている。
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by hatano_naoki | 2007-03-13 20:01 | 日日
パソコン通信の時代
以前から不思議に思っているのは、パソコン通信の時代について書かれたものがなぜほとんどないのかということだ。実際にはいくらかは存在するのかもしれないが、私にはあのときに起きたことの大きさに比べて記録しようという動きが小さいように見える。パソコン通信を舞台にした小説があったように思うし、パソコン通信を扱ったいくつかの研究を目にしたことはあるが、全体としてパソコン通信の時代は歴史から消えたように思えてならない。
インターネットの前はパソコン通信だった。社会におけるパソコン通信の存在感は現在のインターネットと比べればずっと小さかったが、その時代にあってはかなりのインパクトがあったのも事実だ。
数十人ないし数千人のコミュニティから始まって、その末期には数百万人という規模になったパソコン通信の内部で起きたできごとは、そこにいた私には大変に面白かったが、それらが書き残されていないという不満がある。
あの時代は書き残される価値のない、たいしたことのない一時期に過ぎなかったのだろうか。
あの頃はよかったというような感慨を持っているわけではない。パソコン通信を経験したひとたちの回顧調の語りを聞くと、わたしですらなにかうんざりした気分になる。回顧という行為に対するあとの世代の反発は理解できる。また、回顧ということ自体、そこにいたことを強調する(=いなかった者を排除する)くせがあるし、コンピュータ/ネットワーク環境は特に、そこにいないと感じられない独特の雰囲気があるのだと思う。
パソコン通信の世界は閉じた生態系だった。あるいは化学反応を起こす実験装置だった。その内部には無意識的にそこにいるひとが多くいたのは当然として、意識的・観察的にいるひとが少なくなかった。つまり黎明期のコンピュータによるコミュニケーション・ネットワークであったパソコン通信そのものに興味を持つひとが少なからずいたのだ。ここが現在のインターネットと決定的に違うところかもしれない。そこには才人がたくさんいた。
小説、研究、ノンフィクション、どんな形式にせよ、あのとき起きたことを残すべきだと思う。それが私のしごとであるとも思えないが、ひとつだけ思いつくのは、私がパソコン通信の時代にネット上で書いたエッセイなどをまとめ、それになんらかの解説的な文章を付け加えて一冊の本にまとめることだ。いまとなっては解題が必要なのだ。もちろん、ここでも「その本は売れるのか」という問いに直面するのだが。
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by hatano_naoki | 2007-03-12 07:14 | 日日
沖縄勉強ノート(111)沖縄歴史年表
d0059961_21543650.jpg沖縄の歴史年表を書いている。
3万2千年前とされる山下町第一洞穴遺跡の時代から現代にいたる年表。
もちろんこの時間の全体を同じ尺度で紙に移すわけにはいなかい。おおざっぱに3万年前~1万年前、1万年前~紀元0年、紀元0年~500年、500年~1000年、1000年~1850年、1850年~2000年と区切り、時代が下るごとに詳しくなっていくようなつくりになっている。全体の長さは160センチくらい。最初はA4判2枚分くらいだったのだが、次第に増殖していくデータを収容するために紙を継ぎ足していったらこうなった。
何十冊かの本から抜き出したデータをこの年表に書き写していく。歴史的なできごとだけでなく大きな時代のうねりも書き込んでいく。こういう作業は沖縄の歴史を頭に入れるのに役に立つ。ゆっくりとした変化がわかってくるのが面白い。たとえば沖縄が何度か経験した日本化や中国化、隆盛と没落といったうねりが見えてくる瞬間はスリリングだ。ここまで手間をかけた年表を作ったのははじめてだが、私個人としては対象を理解する方法として有効だと思う。この年表ひとつを見ながら本を書くことすらできそうな気がしてくる。自分で書く歴史年表は、実際には他人の知識の切り張りであるのだが、なにかとても生き生きと感じられるのだ。

以前、カンボジアの歴史について同じような年表をつくろうとしたことがあった。これは中途半端に終わったが、その主な目的は仮説・主張の整理だった。カンボジアの古代史・中世史はわからないことが多く、また研究者によって意見が大きく違っていることも少なくない。それらの説を年表上で混在させるのではなく、ある研究者がどのような主張をしているのかがわかるような整理をした。沖縄の年表はだいぶ全体像が見えてきたが、カンボジアについても同様の自分なりの年表を改めて作ってみるのがいいかもしれない。

3月12日の追記。
この年表は私の作り出したフィクションかもしれない。データを集積していく作業は客観的で実証的にも見えるが、書き込むデータ次第で歴史の印象は大きく違ってくるし、データの読み方もいろいろあるだろう。なによりも危険なのは、落ち着きのいい読み方(=納得できる物語)を私が欲しているということだ。ここでは物語の自己完結性が自然に必要とされてくる。頭のいい研究者ほど物語の完全性という落とし穴に落ち込みやすいのではないか。
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by hatano_naoki | 2007-03-10 21:44 | 沖縄勉強ノート
思考の星雲(7)
又聞きの又聞きのような話だが、レヴィ・ストロースはbricolage(日曜大工というような意味)という概念を提示しているらしく、これを行う者はbricoleur(器用人というような意味)と呼ばれて玄人(くろうと)と区別されるという。またbricoleur(は近代における知の象徴のひとつとしての「技術者」と対立する概念であるという。
ここでいわれているbricolage/bricoleurの概念を正しく理解しているかどうかは自信がないけれども、私自身の生き方とか処世とか立ち位置とかがどうもこれに近いのではないかと思えてならない。
私には全体がなく細部の累積がある。細部と細部は脈絡がなく、また往々にして矛盾する。それらのありかた、役割、意味もまたばらばらだ。こういう状態を一般には無意味とか混乱とか場当たり的とかいうのだろうが、私自身にしてみるとそれほど居心地がわるいわけではない。これは現代における知のあるべき姿からするともってのほかだろうが、私にはそれなりに納得できている。ただそれをうまく説明できない。
当然の話だが、私たちが自分の考えを他人に語るとき、それがどんな表現であろうと、その思考がこれまでの人類の知の系譜のどのあたりに位置づけられるかを明示することができるだろう。しかし語る本人が明示できるかどうかは別だ。むしろ、よほどの知の達人でないかぎり、自分の思考をどう名づけるか、とまどうひとのほうが多いにちがいない。
一方で、知の構造を知れば知るほど、その知の仕組みに絡めとられてしまう危険も大きくなる。最近、そのような悲鳴の聞こえるような文章をいくつか読んだ。
知との関係において私は愚かだという自覚がある。知の構造も名づけ方もしらない。このような人間がなにかを考えたりそれに基づいて行動しようとするとき、唯一の優位性は、こういう人間に対しては知の陥穽なるものも無力だろうということだ。そしてまた、全体としては愚かで無知であっても、自分の経験と感覚がなにかに触れる一瞬に自分の能力を超えるような知に出会えるのではないかという楽観も捨てきれない。それはちょっとシャーマンめいた感覚でもある。
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by hatano_naoki | 2007-03-09 10:43 | 日日