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コンクリートの壁、ひび割れ、しみ

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by hatano_naoki | 2007-08-29 17:58 | 写真日記
世界史を知らない子どもたち
「文部科学省は28日、年度内の改訂を目指している学習指導要領で、高校での世界史を引き続き必修科目とする案を、中央教育審議会(文科相の諮問機関)の高校部会に示した。」(asahi.com)
背景には昨秋の履修漏れ問題がある。で、ショッキングなのは「審議する委員からは様々な意見が出て、この日はまとまらなかった。」という下りだ。つまり世界史を必修とすることに賛成しない委員がいたということである。
文科省は「世界史を必修として残しつつ、日本史や地理との関連をいっそう重視する」方針で、これはつまりこれら三教科の統合を意味しているようにもみえる。また高校の現場では世界必修のしばりを外すことに熱心な人々もいるようだ。
こうした状況はつまり、高校が予備校として機能している現実の反映だ。受験の成果を求められる高校は受験に必要のない教科は切り捨てる。その結果、世界史を知らない子どもたち、つまり世界史をしらないおとなたちの予備軍が増える。
世界史を知らないということは、世界で起きた戦争、虐殺、抑圧、搾取を知らないでおとなになるということで、つまり歴史の中で起きた不正義への怒りを感じることなくおとなになるということで、そういうおとなが社会を牛耳っていくということだ。世界史を知らない日本史学習など糞ほどの価値もないが、その日本史学習の唯一の目的が受験であるのなら何もいうことはない。
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by hatano_naoki | 2007-08-29 06:10 | 日日
粉末化するカエル、風葬
我が家の近所には池らしい池はないはずだが、昔からカエルをよく見る。玄関の前に座っているのを見るときもある。道路にはときどきカエルの死体が転がっている。車に轢かれたのだろうか、丸々とした腹からはらわたが出てしまっている光景は無残に映る。
その死体はしばらくすると干からびてひらぺったくなっていく。生々しさは消え、干物のような物体に変化して、情緒的な存在ではなくなっている。干からびたカエルの体は、その後も道路の上に存在しつづけるが、乾いた体の上を車が何度も通りすぎるうちにしだいに体の一部が欠けていく。粉になっていく。粉は風に舞い、どこかに飛んでいく。やがてカエルの姿は路上から消える。誰かが片付けたとも思えないから、完全に粉になってしまうのだろう。
こうして生々しい腹をさらしていたカエルが時間の経過とともに粉になって消えてゆくのを子供のときから見てきた。それはいわば日常の光景であり、とくに鮮烈な印象であるとかそういったものでもない。だが最近のある日、生き物の運命とはああいうものなのだと、急に思ったのだ。
風葬という弔いのかたちがある。人々は死者を野に運び、そこに置いて去る。水分で潤っていた人間の肉体はやがて野生動物によって撹乱され、陽に焼かれて乾いてゆき、骨だけが残る。野に晒す弔いはいわば亡骸を乾燥させることを目指している。
死者とは乾いてゆく存在であり、こなごなになって風に舞い、消えてゆくものである。それは私個人のレベルにおいてはある種の発見であり、死に対する恐怖をいくらか和らげる効果をもたらした。私が風葬になる可能性はほぼゼロだが、どこかの山中で行き倒れたなら、事実上の風葬になるかもしれない。世間的には不慮の死といわれるだろうが、粉末化し風に乗って飛んでゆく私自身は不幸ではないと思う。それからふと、どこかの原野に倒れた自分の遺骸が朽ちてゆくのを超微速度撮影した映像を想像してみる。
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by hatano_naoki | 2007-08-27 12:09 | 日日
サーターアンダギー
沖縄料理を食べて帰った夜、沖縄のドーナツ的食べ物、サーターアンダギーを食べた。沖縄に行きたい。

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by hatano_naoki | 2007-08-26 22:37 | 写真日記
記憶のアンカー
ブログには記憶のアンカーとしての役割もある。
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by hatano_naoki | 2007-08-26 22:34 | 日日
沢尻エリカCMの魅力
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沢尻エリカは好きな女優ではないけれども、明治製菓のFran Aromatier(フラン・アロマティエ)という新製品のTVCMに登場するこの女優は気に入った。CMそのものも話題になっているに違いない。
彼女が頭を振ると髪型が一変するその視覚的イメージがわかりやすく、鮮やかで美しい。CMでこそ表現できる美の一形態。もはやチョコレートのCMではなく、女はこんなにも変わることができるのだと、ファッショナブルに主張している。こう主張するには彼女のように完璧でシンメトリックな美しさが必要だ。
ちなみに長いバージョンと短いバージョンがあるが、明らかに長いバージョンがいい。
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by hatano_naoki | 2007-08-25 19:55 | 日日
飼い猫は時間をもてあましている

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by hatano_naoki | 2007-08-25 01:22 | 写真日記
文体のことなど
他人には何の関心もない話だろうが、思考のメモとして書き留めておく。
文体の話である。
よく軽妙な文体というのに出会う。読みやすく、リズムがよく、よく走り、ときにはニヤリとしてしまうようなユーモアとおそらくその背後にあるはずのエスプリ。こういう文章に出会うと、本屋での立ち読みが気がつくと一時間にもなっている。
で、ひるがえって私自身の文体はどうかということだ。
私にもかろうじて文体と呼べるであろう文章の個性はあると思うし、自分の文体が嫌いだということもない。しかし自分の文体がこういった洒脱な軽みを帯びるにはどうしたらいいかと思うことがある。ないものねだりかもしれないが軽みがほしいのだ。
もちろん、テーマは軽みばかりではない。
文章を書く人間は誰でも自分の語り口に愛着があるはずだし、その語り口が忘れがたいほどに個性的でありたいと願っているはずだ。文体は私の思考、感情、視線そのものだし、生き方の表明でもある。
極端にいえば内容より文体が大事だ。しかし文体は創出できるものではないという気がしてならない。文体はそのひとの存在から立ち昇ってくる。とりつくろうことができないし、体裁を整えることもできない。だから晒すほかない。文体がだめなら書くのは無意味だ。しかし迂遠な道はあるように思える。文体が結果であると考えれば、日常のすべてがその手段であり過程だということになる。つまり毎日の思考、感情、視線が大事だ。
実際には文体は修練の結果というより才能だという味気ない結論が出そうではあるのだが。
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by hatano_naoki | 2007-08-24 21:08 | 日日
掌の中の地球

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by hatano_naoki | 2007-08-24 20:50 | 写真日記
花園神社(新宿)

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by hatano_naoki | 2007-08-23 17:19 | 写真日記