沖縄勉強ノート(1)
「カンボジア・ノート」をいちおう書き上げた。一応といったのは、内容について他人(つまり編集者)の意見を必要とする段階だと思うからだ。さて、読んでくれる編集者を探さなければ。

「カンボジア・ノート」が手を離れてもいないのに、次はどんなものを書こうかと考えるのは、まだまだ続くにちがいない目の前のつらい作業から逃避したいからだろう。
そこで思いつくのは、まずはやはり紀行に類する文章だ。たとえば沖縄をテーマにした本を書きたいと考える。沖縄は昔から私にとって根源的な場所であり続けているし、これからもそうだろう。私の沖縄体験はとても貧しいが、自分なりに沖縄を描いたらどんなものが書けるのかと考えることはそれなりに楽しい。これまで書かれてきた沖縄に関する本の多くがある類型にはまっているように感じるのだが、ちょっと違う本が書けないものか?沖縄の空気、人の雰囲気、東南アジアの匂い、そういったものを、ひとことでいえばポジティブに描けないものか?できることなら沖縄に1ヶ月か2ヶ月住んで、さんざん歩き回り、たくさんの光景を目に焼き付けて、それから書き始めたいものだ。

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# by hatano_naoki | 2005-11-15 19:10 | 沖縄勉強ノート
町歩き
数ヶ月に一度、都内の古い建築を見て歩いている。ユルいグループで何のしばりもない。夜には少し飲んで帰ってくる。
見るものの多くは19世紀末から20世紀にかけてのいわゆる近代遺産というべき建築群で、アールデコの匂いのするものも少なくない。
自分の住んでいる町である東京に存在する近代遺産を歩くのは、既知の町を別の視点から見直すという意味で面白い行為だし、文化遺産とはなにかということを考える上でも役に立つはずだ。ただ率直に言って、町歩きを好事家の視点ではやりたくないという贅沢なわがままも潜んでいる。
(写真:明治学院大学インブリー館、1889)

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# by hatano_naoki | 2005-11-08 00:14 | 写真日記
RICOH GR Digital
最近発売されたリコーのコンパクトデジタル、GRデジタルにはちょっとそそられる。
小型で写りがよく質感も好ましい。
こういうカメラ一台だけを持って近い外国に行き、町をぶらぶら歩きしながらモノクロ写真を撮ったら楽しいだろう。
自分がどれくらい写真という表現手法に興味があり、どれくらいのセンスを持っているかはわからないが、写真を撮るということが自分にとって以前より大事になってきているのは確かだ。

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# by hatano_naoki | 2005-11-04 09:03 | ネットとデジモノ
能登のキリコ
先週末に全国各地からみこしや山車が集まって有楽町から東京駅まで練り歩く江戸天下祭というイベントがあり、知人が珠洲市から参加するというので珠洲からやってきたキリコに付いて歩いてきた。キリコは神輿を先導する燈明の役割を持つ。若者がかつぎ、上下左右に練りつつあるくのが特徴だという。キリコをかつぐのは色彩も柄も派手な着物をはだけて着た若者だが、日常から抜け落ちた壊れた感じ、限られた狂気というような雰囲気もあってなかなか面白い光景だった。着物の色柄には南方の匂いもするのだが、実際のところはどうなのだろうか。

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# by hatano_naoki | 2005-11-01 22:07 | 写真日記
幻想の国家
幻想の中に生きることは、それはすばらしいことかもしれず、あるいはとめどなく苦しいことかもしれない。
こう言う私がイメージしているのは、日本という「国家のようなもの」だ。
国家は自国民を庇護するために国境で囲い込む。あるいは自国民を閉じ込めて苦しめる。こう言う私がイメージしているのはポル・ポト時代のカンボジアである。
日本という国家が幻想的な存在であるためにそこに住む人々は実在の手触りを味わうことができないが、多くは自分の手が実在する世界に触れていないことすら気がついていない。
半世紀以上も幻想を食らってまどろんできた国家が現実に触れようとするのは、かなり危険な作業である。といって幻想の中に生き続けることはもはやできない。あやうい時代が始まろうとしている。
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# by hatano_naoki | 2005-10-30 01:26 | 日日
追い込み
一昨年から書き続けている原稿が最終段階に入った。
自分とカンボジアとの関わりを紀行風の文体で綴り、量で言うと450枚くらいでたいしたことはないが、手にあまるテーマだったために時間と手間ばかりかかった。最近になって普通のひとびと、つまりカンボジアに特に強い興味を持たない人にも読んで面白いと思える内容にしたいと考えて書き直しているが、これは当然のことだがなかなかむずかしい作業だ。泥沼にはまってあがいている心境である。
しかしいずれにせよ書くことは楽しい。はやく脱稿して次のテーマを決め、今度はもっと楽に書いて見せるぞと思いながら相変わらず泥の中を歩いている。
ところで最も基本的な問題は、出してくれるところを探していないことだ。なんとか他人に見せられるところまでこぎつけ、次の段階に進みたいのだが。
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# by hatano_naoki | 2005-10-27 23:32 | カンボジア
死に至る病としての生
「死に至る病とは絶望のことである」といったのはキルケゴールだが、このことばの記憶に始まり、その本来意味するところを逸脱して「死に至る病としての生」あるいは死そのものについて考えるのは年齢のせいだろうか。
かんがえてみると、たぶんそれほどの時間が残っているわけではない。父親は65歳で死んだが、私が父親の死んだ年齢に達するまでに十年もない。そう思うと、ああ、なんて人生だったんだとため息が出るが、しかしまったく無駄な人生だったということでもない。
すばらしい風景を見たことがある。この世のものとは思えないほどの星空や雲海、茶色に濁った大河や見渡す限りの樹海、見渡す限りの荒れ野、吼える吹雪、何百メートルもの断崖とそこにしがみついた私。
何百もの旅の夜、何百もの仮のねぐら、そこですれちがった人々、彼らの歩く音、ささやき、咳払い。彼らの息遣いや一瞬の表情。
総じて私の人生は「見るひと」であったことになる。目撃し、心にとどめるが、それ以上でも以下でもない。見るということは積極的な参加を意味しないが、見ること自体が批評的な行動であるという幻想を捨てきれない。目撃し、自分の内部にとりこんで考え、それから表現する。こういう行為の循環を私は夢見ていたに違いない。
結局のところ、死を思う私は死そのものに対する形而上学的(?)恐怖と自分の表現が為されずに終わってしまうという人生の不完全な終わり方のふたつに引き裂かれている。前者は、ようするに認識の主体としての私の意識が死によって消えたあと、私が認識することによってのみ存在していた世界はいったいどうなってしまうのかということであり、後者は単に表現不全の悔恨にすぎないのだが。

(未完)
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# by hatano_naoki | 2005-09-14 08:54 | 日日
「アールデコの建築」(吉田鋼市著)
アールヌーヴォーとかアールデコとかいうことばはずっと以前から聞いて知っていたが、その定義とか変遷とかについてはまったく疎かった。
ところが最近見つけた「アールデコの建築」(吉田鋼市著、中公新書)は実に明快にこれらの誕生と変遷について教えてくれた。
そこで気がついてみると、東京の古い建物でこれはいいなと思うものの多くはアールデコであり、同様に東南アジアにも多くのアールデコ建築が現存しているのだった。
たとえばプノンペンの中央市場(プサートメイ)はアールデコだという。プサートメイが生まれるまでの歴史的経緯はなかなか面白いのだが、更にその建築様式を理解するならば世界的な潮流の中でのこの建物の運命を知ることにもなり、興味と理解が立体的になってくるのを感じる。
建築には興味があるものの様式について勉強などしたことがなかった私は、この本からアールデコに関するいくらかの知識を得ながら、自分がかつて見たことのある印象深い建築物をなつかしく思い起こす。アールデコは今から見れば情緒に富み、人間的で、現代に対する批評的存在でもあるように思われる。

ある出来事、状況、思潮、その結果にあとから名前をつけ流れをつけて一貫した歴史を組み立てる。多くの場合、名前はあとから付けられる。
では私自身の状況と作り出そうとしている何ものかは、あとになってどんなふうに名づけられるのだろうか?名前をつけられて整理され歴史の体系に組み込まれる前の状態をどう理解して仮の歴史に組み込むかはちょっとした知の冒険である。これこそが「今」に関わる醍醐味なのではないか。
そんなことをちょっと考えた。

写真はプノンペンのプサートメイ。
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# by hatano_naoki | 2005-09-10 09:34 | 日日
展示「わが内なる博物館的欲望」
架空のイベントの話である。
私の興味の対象をモノあるいはイメージとして展示してみたらどんなイベントが現出するだろうかと考えた。
こういうイベントが実現したら、ひとによっては自分のコレクションを展示するだろうし、読んだ本、見た映画、会ったひと、訪れた土地を展示するかもしれない。女好きな男はこれまでに寝た女たちの記憶を展示するだろうし、自殺志望の少年はそれまでに想像した自殺の方法を一覧展示するかもしれない。
自分を構成しているモノ、イメージ、欲望、記憶、後悔、職業的スキル、人的関係、その他もろもろの破片の一覧展示。
こういう行為は、私の中にある「博物館的欲望」を解放してそれらに一定の体系を与えることになる。個人のウェブサイトやblogには基本的にこういう機能が埋め込まれているが、それを意識的に拡張して具体的な展示としてみたらどうかということだ。
ではなぜこういうイメージを持ったのか。おそらく民博(国立民族学博物館)を見たことが引き金になっているが、私の中に自分の展示=自己顕示の思いつきが育っていたのも確かだ。このいまひとつ判然としない思いつきの真の理由はおそらく、今ひとつ燃え上がらない創作的活動への衝動にあるに違いない。

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# by hatano_naoki | 2005-08-29 07:08 | 日日
未来を語らず
現代の日本において未来を語るという習慣が失われて久しいという気がする。
私が子どもだった1960年代にはまだ未来というものが存在しているように思えたし、それらは具体的な姿を伴っていた。経済的な発展と生活の向上というモデルである。
今日は昨日よりもよく、明日は今日よりも良い。それはほとんど約束された未来だった。

未来が語られなくなったのはいつ頃からだろうか。
気がつくとメディアは未来を語らず、人々も未来を語ることをしない。誰も飢えず、町は明るく照らされ、交通機関は定刻どおりに発車するが誰も幸せではない。
私は何のために生き、誰のために死んでゆくのか。今、この国で根源的なものが失われていることが露わになってくる。かつて未来はモノの領域にあったが、今ではココロの領域に移行した。そのココロの領域にあるべきコアのようなものが見当たらない社会は腑抜けである。
その理由は、わたしの独断では、私たちが自らの力で未来を切り開いて来なかったからだ。
戦後の日本は過酷な経済的な戦争(あるいはゲーム)を戦い抜いたが、その戦いが生易しいものではなかったのは誰もが認めるところだろう。それはそうなのだが、その戦いはあくまでも大きな傘の下に庇護されており、まったくの孤立的な戦いではなかった。
もちろん経済的なゲームに資源を集中したことは賢明だったといえるが、それがココロの空洞化と引き換えだったことに気がついたのはずいぶんあとになってからだった。

わたしもまた未来を語らない。
では未来がないか、あるいは暗いのかといえば、実際にはそうともいえない。未来への社会的なビジョンがなく、そこに生きる私が途方に暮れているのは事実だが、未来へのビジョンを創出したいという意識もある。これはかなり大事な課題だ。実際、夢見る未来がなければ私たちはやがて滅びることになるだろう。
では一個人である私にそんなことができるのだろうか。
私はある程度はできると思っている。
それはモデリングである。私という一個人が内向してココロを見つめ、そこから未来を夢見ることができれば、それを超ミニサイズでモデリングすることができる。自分がそのように生きようとするということだ。時間はどこでも同じように流れているわけではない。場によって過去だったり未来だったりする。そういう意味で、自分のまわりに未来を呼び寄せてちょっとはやい未来を生きるのだ。
そういう多様なモデリングの現象があちこちに生まれるなら、それは一定のダイナミズムとなるだろう。その場はインターネット上を借りる可能性がある。
未来はインターネット上のささやかなblogから生まれるかもしれないと、たまにはblogを持ち上げておこう。
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# by hatano_naoki | 2005-08-23 20:05 | 日日
ジェノサイド
ジェノサイドということばはナチスの戦争犯罪を裁く過程で作られたことば(造語)だという。
ギリシャ語で民族、種族を表すgenosと、ラテン語で殺害を表すcideを組み合わせたもので、ニュルンベルグ裁判が企画されナチスによるユダヤ人大量虐殺を指弾する過程で作られた。その定義は1998年の国際刑事裁判所規程(ICC 、ローマ規程)によれば「国民的、民族的、種族的または宗教的な集団を、全部または一部、それ自体として破壊する意図をもって行われる次のいずれかの行為をいう」とされる。
具体的には、
1)集団の構成員を殺すこと。
2)集団の構成員に重大な肉体的または精神的な危害を加えること。
3)集団の全部または一部の身体的破壊をもたらすことを意図した生活条件を故意に集団に課すこと。
4)集団内の出生を妨げることを意図した措置を課すこと。
5)集団の子どもを他の集団に強制的に移すこと。
を指すという。

ジェノサイドは基本的には異民族の民族浄化を目的とするが、カンボジアにおけるジェノサイドの場合、自民族を殺害の対象としたという特殊性から「オート・ジェノサイド」(自民族の大量虐殺)ということばが作り出されるにいたった。
私の興味の対象であるカンボジアで行われたジェノサイドの特殊性と普遍性を理解するには、当然のことだが、個別のケーススタディを通じてジェノサイドの変容とそれらのメカニズムについて知る必要があるだろう。

現時点ではジェノサイドに関連して、一般論としてこんなことを考える。
人間はどこまでも残虐になれるし、また残虐な行為に慣れることができる。理性など消し飛んでしまい、自動機械のように人を殺すことができる。低レベルの教育に麻薬的なプロパガンダが加わると誰でも容易に人殺しになれる。高等教育を受けた者でも容易に人殺しになれる。
監獄国家が成立するのを阻止できないことがある。
ナチ・ドイツでも戦前の日本でも同じだが、社会に悪の自動的メカニズムが組み込まれ、それがうまく動き始めると止めるのがむずかしくなる。そればかりでなくその動きはすこしづつ速くなり、メカニズムの要求は過酷になり、最後には多くの犠牲を出して自滅する。人はもはやそれに奉仕するしかない。
外の世界である国際社会は頼りにならない。誰も助けてはくれない。
多くの弱い国でジェノサイドが起きたが、いずれも阻止されることがなく、周辺国家間の力学と大国間の力学の二重構造の中で人々は見殺しにされた。
国家は外的から身を守る防壁であると同時に牢獄にもなりうる。
指導者と大衆は同じレベルで信頼できない。悪の指導者が国家を指導することがあり、善意の大衆が彼を支えることがある。社会が狂うことがある。規範が狂い、価値観が狂う。
悪を働いた者が罰せられるとは限らない。悪を働いた低い地位の者は私刑をふくむ厳しい罰を受けることがあるが、高位の者は罰せられないどころか新体制の権力者として生まれ変わることすらある。

・・・まあ、考察を進めよう。
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# by hatano_naoki | 2005-08-20 13:06 | カンボジア
ことばの神さま
私でさえ、ときとしてことばの神さまが近くにいると感じる瞬間がある。そのとき、自分の尺度では最上級に属する幸せを感じる。
ところでここ二年ほど、ひとつの原稿にとりつかれている。
この原稿に膨大な時間を吸い取られている。その割に内容にも原稿量にも満足がいかないという、いわば最悪の状態が続いている。実際にはそれほどおおげさな話ではなく、進み具合がおそいというだけなのだが。

ここ何年か、ことばの神さまはあまり近くにはいなかったようである。
しかし書くという作業は私の内部に埋め込まれている。書かないということは考えられない。書くことは呼吸のようなものだ。書くことで自分が救われる瞬間も経験してきた。
ではどうすればことばの神さまを呼べるのだろか。
ごく最近になって、ことばの神さまがどこかにいるのではないかという気配を感じた。自分の分析では、それはここしばらくの私の感情生活の結果である。私の見たもの訪れた場所会ったひとの記憶が醸成されつつあるという予感である。
結局のところ私は体験型であり、書斎に生きる人間ではない。何かをすることで触発され励起するものがある。

気配を感じることばの神さまとの付き合い方だが、神さまが姿を現すまではおそらく私の感情生活ができるだけ刺激的であることが肝要だ。それはまるで神さまを呼び出すための儀式の様相を呈する。おそらく私はことばを得るためには魂を売り渡してもかまわないと思っているのだ。
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# by hatano_naoki | 2005-08-20 06:32 | 日日
聖母(マドンナ)たちのララバイ
d0059961_53732100.jpgフジ系の「上海ルーキーSHOW」を見るでもなく見ていたら、岩崎宏美が登場して「聖母(マドンナ)たちのララバイ」を歌いはじめた。この曲と歌手がずっと好きだった私はすぐさまAmazonでシングルCDを注文したのだった。
この曲は日本TV系「火曜サスペンス劇場」のテーマ曲として昭和56年(1981)9月29日~昭和58年(1983)4月26日の間放送され、翌年レコード化された。1958年11月12日生れだというから岩崎宏美はアイドルとはいえない年齢になった頃にこの曲に出会ったことになる。
デビューした頃は美少女とはいえないまでも清楚な雰囲気を持っていて、どのクラスにもひとりはいる、魅力を発散するタイプではないが気になる存在である少女の類型に属していたし、なによりも楽器のように美しく澄んだ声の持ち主だった。
その彼女は現在46歳になっているはずだ。ずっと前に結婚してその後離婚したことはテレビの芸能ニュースで知っていた。今は歌手としての活動をコンサート中心に活発に行っている様子が彼女の公式サイトからも伝わってくる。
いまだに凛とした雰囲気を漂わせていて、その年齢の女としては十分すぎる魅力があると同時に年齢にふさわしい重みとすごみがあり、それは時間のなせる業だからしかたがないことだが、やはりいくらかの落胆を感じるのは身勝手だと分かっている。

私の印象では「聖母(マドンナ)たちのララバイ」は歌詞のセンチメンタリズムと歌い手の媚びない歌唱がうまくマッチしている。そこに生まれるロマンチックな世界に入り込むならば、歌謡曲だから許される口当たりのいい陶酔感を味わうことができる。
注文後あっという間に到着したシングルCDからmp3ファイルを作って携帯に入れ、喫茶店で今書いている原稿に手を入れながら何十回も聴いた。
聴きながら、ああ、おれには過去がないな、と思う。
過去を思い出して回顧するという習慣がほとんどない私にとって、過去を思い出す稀な瞬間がかつてのアイドル歌手との遭遇だ。
そのとき、小学校の同級生と再会したときのような時間が過ぎてゆくことを実感する。ほとんどの場合それは悪い気分ではなく、ほろ苦くて少し甘い。
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# by hatano_naoki | 2005-08-18 02:18 | 歌が私を・・・
さびしい記念碑
d0059961_1510413.jpg国立民族学博物館(通称民博)は千里万博記念公園にある。
この公園はその名の通り1970年に開催された大阪万博の跡地であり、大規模施設である民博は跡地利用における知の中核施設といえよう。
モノレールの「万博記念公園」駅で降りて以前から見たかったこの博物館に行くために小雨の中を歩いていった。エキスポランドは人気があるようで多くのひとびとがそちらを目指すが、中国高速を越えて公園を目指す人影はまばらである。

公園のゲートを通過して民博に向かうと、万博の残した記念碑のひとつである岡本太郎作の「太陽の塔」が迫ってくる。
この奇妙な塔の評価は賛否両論だったと思うし、私自身も否定的だった。しかし35年が経って公園となった広い空間にひとつだけ立っている巨大な塔の前に立った私は思いがけない感慨を抱くことになった。この塔がある種の悲しさとかさびしさを漂わせているように思えたのだ。

その理由は明快だ。
ここは万博の会場跡地である。のべ約6421万人もの入場者を迎えた場所からこの塔を除く施設のほぼすべてが取り払われた。今私たちが見ることができるのはこの塔を除けば「お祭り広場」の上にとりつけられていた幅108メートル、長さ292メートルもの大きさを持つ屋根の構造を支えていたフレームの一部などにすぎない。
短期間にせよ多くのひとびとのエネルギーが集中した場所が今はほぼ無人の空間になっている。その目撃者である記念物がこの「太陽の塔」であるという意識が私の中にある。

私個人は大阪万博を特に高く評価しているわけではないが、日本が懸命に働いて豊かさを手に入れる過程であの博覧会が象徴的な存在であったことは否定できない。私もその現場を見たひとりである。
私が大阪万博に行ったのは夏の暑い時期だった。20代前半だった私は逆瀬川にあった親戚の家に泊まり、電車を乗り継いで会場に向かった。広い会場を歩き回ったが何かに感動をおぼえた記憶はない。混雑のために人気のあるパビリオンには入場できず、人気のない小さなパビリオンのいくつかを見るだけだった気がする。万博の熱気は感じたものの、その歴史的な意義を感じるには至らなかった。

公園を歩きながら記憶をたどってみたが、万博会場の記憶はよみがえらなかった。ただ、かつての戦場をあるくような気分がした。
「太陽の塔」は背後でしだいに小さく遠くなり、私は孤独な塔のことを忘れて次第に近づいてくる民博で一体何が見られるのかわくわくしはじめる。
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# by hatano_naoki | 2005-08-16 13:58 | 日日
JAL123便の夏
バンコク中央駅のすぐ西側をスリクルン運河が南北方向に走っている。
その運河に面して立つ古いホテル、クルンカセム・スリクルンの一階にある食堂で朝食を食べていると、天井からぶら下がった17インチくらいのテレビに航空機事故のニュースが映し出され、やがてそれが日本での事故であるらしいことが分かってきた。
それがJAL123便の事故を知った瞬間である。

1985年8月はじめ、会社勤めを辞めた私はタイへの旅に出た。バンコクに到着して最初に滞在したのはチャイナタウンにあるホテルだったが、それからタイ北部を歩き、バンコクに戻ってきて泊まったのがクルンカセム・スリクルンである。ホテルとしては中の下くらいの位置づけだっただろうか。部屋が広いのだけがとりえで、窓からは中央駅のカマボコ型の屋根がよく見えた。
当時のバンコクは高層ビルの林立する東京に似た町ではなく、焼けたアスファルトの上をトゥクトゥクがみずすましのように走り回り、いかがわしさと活力のいりまじった濃厚な雰囲気を残していた。タクシーもコンビニもスカイトレインも地下鉄も定価販売も存在しなかったが、タイはまちがいなく経済的離陸の前段階にあった。

タイ語のニュースではJAL123便の事故の詳細はわからなかったのでもっぱら映像をみていた。ひどく破壊された機体の状況が延々と映し出され、少女が自衛隊員にしっかりと抱きかかえられてヘリに収容される映像が印象的だった。結局、私がこの事故の全貌を知ったのはその月の終わりに日本に戻ってからだった。

JAL123便の事故はさまざまな意味で航空機事故の悲惨を体現しているが、私はボイスレコーダーに記録されたパイロットとコパイロットの会話を聴くとき胸がつぶれる思いがする。彼らはそれまでの経験から搾り出したあらゆる操縦技術を駆使して、コントロール不能となった機体を実に30分以上も持ちこたえさせたのだ。
しかしやがて機長はこうつぶやく。
「これはだめかもわからんね」と。
その声の冷静さに旅客機のパイロットとしての矜持を感じたのは間違いだっただろうか。
それから更に10分の間、機体は飛び続けた。

(追記)
未確認だが、ボイスレコーダーは墜落直前の「もうだめだ」という叫びを記録しているという。
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# by hatano_naoki | 2005-08-12 07:34 | 日日
大平建築塾
d0059961_1521442.jpg信州の山の中に昔の宿場が今は無人となって残っている。
しかし人が住まなくなると家の傷みは早い。そこでそれらの家々を修繕し、修復して維持していこうという運動がある。
数十人、ときには百人以上の年齢も経歴もばらばらな人たちが毎年の夏に各地からやってくる。彼らは江戸末期に建てられたような古い家々に分かれて数日間寝泊りし、自炊しながら家を掃除したり修繕したりする。夜は酒盛りだ。
こういう集まりに参加した。

「年齢も経歴もばらばら」と書いたが、実際にはやはり建築関係のひとたちが多い。
設計事務所を経営しているとか、大学で建築を勉強しているとかだ。私はといえば、ようやく文化遺産の保存と修復といったキーワードで細く細く繋がっているにすぎない。
参加の印象は、結果からいえば決して悪いものではなかった。特に参加していた若者たちには強い印象を残したことだろう。
見知らぬ人たちとの共同生活にいきなり投げ込まれるのは貴重な体験になるはずだ。

私は若くないので強い印象を受けるところまではいかなかったが、そのかわり保存運動のひとつのケースとして、さらにはひとが集まってなにかを行う行動モデルのケースとして興味深く観察した。
村人がすべて離村してから長い時間が経過した無人の宿場を、血が流れ息を吹き返すまでに回復させるのは容易なことではない。そして最終的にはなぜ保存するのかという本質的な問題に行き当たる。
さらに私を驚かせたのは、これらの古い家々を修復するための、私には天文学的な数字に思える費用の大きさである。

個人的に思ったのは、保存運動モデルの開発という観点からの関わり方もあってもいいのではないかということだった。建築的な視点だけでなくさまざまな分野の専門家の参加も必要だ。行政の内部に身をおいたこともある私には、地元の行政とのコミュニケーションのありかたについても思うことがいくつかあった。私が関わるならば、それはネットワークメディアとリアルな活動を結びつけることしかない。
言うはたやすく、十年以上も活動しているひとたちにはこうした言葉はそれほど価値がないに違いないのだが。
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# by hatano_naoki | 2005-08-08 23:24 | 日日
ラジオ・エチオピア
恋愛小説をずっと読んでいなかった。
もともと嫌いなのだ。架空の恋愛物語に感情移入しても時間の無駄ではないか。
それがどういう風の吹き回しか、一冊の恋愛小説を読むことになった。きっかけは相変わらずの偶然で、本屋でたまたま目に付いたのはその奇妙なタイトルのせいに違いない。
「ラジオ・エチオピア」。
それがニューヨーク・パンクの女王と称されるパティ・スミスのセカンド・アルバムのタイトルあることを知らなかった私は単に奇妙な単語の組み合わせと音としての響きに興味を持ってその本を書棚から抜き出したのだが、数ページ読んだあと、その本が傑作であるかどうかは別にして最後まで読もうと決めていた。
著者は蓮見圭一という人物だが、覆面作家であって正体は不明であるらしい。

メディアはその登場の時点ですでに自らその行く末を暗示しているし、最初のユーザーの一群が利用技術のあらゆる可能性を検証しつくす。
ネットワーク・メディアの恩恵に負う恋愛はすでにパソコン通信の登場した時点で始まっていたし、そこでの恋愛はメディアの特性に色濃く影響を受けていた。メディア上での恋はメディアの実現するコミュニケーション速度によって加速され昂進する。メディアの作り出す相手の残像は直接脳髄に焼きこまれるかのようだ。
男と女が出会ってインモラルな恋が始まるとき、メディアは彼らの味方である。恋が高揚し持続するとき、メディアは彼らの後見人である。恋が破綻するとき、メディアは彼らの検察官であり死刑執行人である。

「ラジオ・エチオピア」を読みながら私は自分がネットワーク上でコミュニケーションを始めた頃を思い出す。それまで見たこともないメディアであるメールには輝きがあり、誘惑的で、ときとして背徳的でもあった。緑色に輝くCRTモニターの前で過ごしたいくつもの長い夜、メールはことばを輝かせ、ことばが道具で武器で、ことばの貧しい人間は生存できない過酷な世界が広がっていた。
無数の恋愛事件が起きていた。それらはときとしてメディアの力を借りて交錯し状況をさらに複雑にする。
その頃、私は「メディア・ラブ」というタイトルの短い物語を書いた。ネットワーク上で出会った男と女の話である。当時の私はあまりにもこの新しいメディアに中毒していたために、間違ってメディアを主人公にしてしまったのだった。

小説「ラジオ・エチオピア」の主役はメディアではないが、メディアの特性はいやおうなく彼らの恋愛のスタイルとプロセスに影を落とす。
家庭ごとに一台の黒い電話があった時代にはこの恋愛は存在しなかったが、むしろそれ以前、手紙だけが存在した時代には存在しえたかもしれない。コミュニケーションの速度に雲泥の差があるにせよ、書き言葉が恋愛の神となるという意味ではそれほどの違いはない。
電子メールの時代は歌垣が生きた時代の再現といえるのかもしれない。
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# by hatano_naoki | 2005-08-08 23:23 | ネットとデジモノ
漂流
何日か前のことである。
本屋で新刊の棚を見ていてふと手に取ったのは「ある漂流者のはなし」という新書判の薄い本だった。何ページかめくっていると次第に引き込まれていった。この本こそ書かれなければならない本であったことが分かったからである。
何年か前、小さな漁船でひとりきりで漁に出た長崎県の漁師がエンジン故障のために漂流し、実に37日目に救助されたという事件があった。この事件のことは鮮明に覚えている。長期の漂流からの生還という事実だけでなく、インタビューへの受け答えからにじみ出る生還者の人間の魅力とでもいったものがあまりにも鮮やかだったのだ。彼が語った「人間て、なかなか死なないものだ」という言葉はその年の流行語大賞で語録賞を受賞したほどに人々の記憶に残った。
しかしテレビだけでなく新聞も雑誌も忙しい。このユーモアと含蓄に富んだ無名の漁師は一瞬だけマスコミを賑わすと、無数の話題の彼方へと退いていった。
私が偶然手に取った本は、そのときの漂流者・武智三繁(たけち・みつひで)さんへの詳細なインタビューをもとに組み立てられ、彼がどのように育ち、どのような仕事をし、どのように漁師となってあの運命の日を迎えたか、漂流が始まってから彼がどのように考え、行動したかを、詳細に描いていた。
ところで、この本を読みながらわたしはちょっと変わった感想を抱いていた。著者・吉岡忍が上手く書こうとしていないように感じられたのだ。どちらかというと乱暴に書いている。事実やことばを読者の前に投げ出している。それには意図があるはずで、その意図なるものがあるとすればそれはインタビューを行った相手から受けた啓示にちがいない。
メディアにはそれぞれの役割がある。テレビは先走ってショッキングな映像とことばの断片を並べ立てる騒々しいニワトリである。新聞は犬だ。すこしは落ち着いているが、獲物のありかをすぐに忘れてしまう。
事実と長い時間向き合い、詳しい報告を書くノンフィクションライターは生産性が低く、雪崩打つ事実と事件のうちのひとにぎりすら明らかにできない。
いつだったか、私は武智三繁さんについての情報を求めてインターネット上をさまよったことがある。しかし地元新聞に載った比較的長文の「漂流記」を除いては彼の全体像を知りうる情報は見当たらなかった。
この本を読むと、テレビと新聞が事実をどのように切り取って報道する性質を持っているか、これに対して事実そのものがどんな性質と量とを持っているかがわかる気がする。事実に深く降りていって真実のあたりを渉猟するということがどういうことなのかが分かる気がする。
もうひとつの感想は、結局のところ誰にも知られないで死んでいく大衆というもののひとつの相についてである。長崎県の小さな漁港から出て行って岸からそれほど離れていない海で、小さな舟で漁をする零細な漁民であった彼は、学歴も職歴も庶民そのものだった。しかし彼のことばは常に真実のそばを徘徊する。これこそが真実なんだと思い込みそうなほど深い。しかしおそらく彼はそれを朴訥な言い方で語ったにちがいない。
彼を通じて、作家の目に触れることがなかったために書き留められることのなかった無数の庶民の思考と行動、書かれれば同じように感銘を与えたに違いない彼らの思考と行動があったのだと分かる。
書き留める側に立つことの意味を改めて考えさせる幸運な読書だった。
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# by hatano_naoki | 2005-06-27 19:50 | 日日
元気だったかい、マーロウ
人に会うまでのちょっとした時間つぶしと調べものを兼ねて本屋に入り、文庫本の棚を見て歩きながら、そういえば最近は文庫本を買っていないなと思った。調べたいと思っていたのはブラッドベリのある短編の書き出しの語句だったが、探していた短編集は見つからず、代わりに目に入ったのはいわゆるハードボイルドの作品群だった。
昔からハードボイルドを愛好したということはなかったが、それでもそれなりに面白いと思い、読んでいた時期はある。またちょっと読んでみてもいいかなと思い、ほとんど行き当たりばったりにチャンドラーのマーロウものを一冊買った。
そこで展開されるのは、あのなつかしい、いつまでも独身で、キザでセンチメンタルな探偵たちの「仕事」である。世間的に報いられることはない彼らの「仕事」の物語に自己を投影しやすくなっている自分を発見するのは、人には言えないがちょっとした驚きで、なかなかドラマチックな体験でもあった。そして、人は笑うだろうが、私には自分の人生とか生き方とかが、どうやら彼ら探偵たちに似ているように思えたのだ。探偵に似ているといえないならば、ハンフリーボガートに憧れるユダヤ人の小男に似ているといってもかまわない。
娯楽と仕事と人生と好奇心を切り分けずに生きてきた私は、仕事を忘れるためにミステリを読んだり旅に出たりするような生き方とは無縁である。ただ、自分がミステリーの主人公のように生きたいとは思う。この先ミステリーを読みふけることは多分ないだろう。
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# by hatano_naoki | 2005-06-09 10:15 | 日日
「謎の金属片」その後
例の「謎の金属片」だが、6日現在で全国2万7000カ所で確認されたという。数はさらに増えるだろう。
これだけの数が見つかると、その全てが車の接触によるとはちょっと考えにくい反面、すべてが悪意といたずらだともいいにくい。なにかもっと込み入った状況がこれらの金属片を生み出しているのかもしれない。
このあとはノンフィクションの領域になりそうだ。

[追加] 7日夜のニュースでは36000ヶ所といっている。
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# by hatano_naoki | 2005-06-07 01:48 | 日日
18年
朝起きてメールを読みにいくと、ニフティからメールが来ていて、その文面は

 「6月6日は、波田野直樹様が@niftyにご入会されてから、ちょうど18周年となります。」

というものだった。短いコラムもあって、

 「お客様がご入会された1987年当時、NIFTY SERVEの通信速度は最大 1,200bps でした(FENICS-ROAD1利用時)。現在最も高速な光ファイバー接続サービス(最大100Mbps)はなんとその 8万倍 のスピードになります。」

などと書かれている。 プロバイダー側から見たメールの目的はどうも死んでいるIDの掘り起こしにあるようだったが、受け取った側は19年目にはいった自分のネット生活をほんの数秒ではあったが感慨深く感じると共に、6月6日という日をちょっと特別な記念日のようにも思い始めているのだった。
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# by hatano_naoki | 2005-06-06 07:08 | ネットとデジモノ
「謎の金属片」の正体
ガードレールの金属片について、新しい情報が出てきた。
それによると、
1)最新の調査では、金属片は全都道府県で合計17000個以上発見されている。
2)車が走行中にガードレールに接触するときに表面が三角形にはがれることがある。
3)ガードレールに取り付けられた古い反射板の金属部分がこのようなかたちで残ることがある。
ということだ。
つまり、現時点では「謎の金属片」は複合的な原因によってできた可能性があるが、これらの可能性が間違いなく金属片の原因であると断定されたわけではない。

こうして私の「ネットを媒介にした悪質ないたずら」説はあっという間に否定される運命にあるが、それにしても事実というものは面白い。
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# by hatano_naoki | 2005-06-03 19:18 | 日日
突出する悪意、あるいは悪意の伝播
ガードレールから突き出した金属片が日本各地で多数発見されているという。

2005年6月3日の読売新聞をもとにした事件の経緯は以下のようである。
5月28日、埼玉県行田市の男子中学生が市道を自転車で走行中にガードレールに挟み込まれた三角形の金属片で軽傷を負った。金属片は2個あり、長さ8~14センチ。行田署が付近を調べたところ、数か所で金属片が見つかり、国土交通省や県などが緊急点検を実施した。
2日現在で43都道府県で確認されており、東日本では19都道県で1700個以上に上っているという。
各地でけが人が出ており、悪質ないたずらが模倣犯的に拡散している可能性もあるとして各警察では道交法違反や傷害容疑で捜査を始めた。

現時点で分かっていることは、次のようなことだ。
1)ガードレールへの設置方法が同じである(ガードレールの継ぎ目に差し込むか、いったんボルトを外して金属片をとりつけ、再び締め直す)。
2)全国各地で発見されていること。
3)大きさは長さ3~30センチとさまざまであること。

まず、現時点ではこれが悪意のあるいたずらなのか、それとも悪意のない別の理由によるのか分かっていないが、仮に悪意に基づく行動だとすると、
1)全国で発見されていることから、おそらく「犯人」はひとりではない。
2)金属片の大きさが違うことから、設置の方法だけが情報として広まったことがうかがわれる。
こういう状況証拠を並べてみると、どうも背景にネットか携帯メールがあるように思える。
つまり携帯のチェーンメールとかウェブ上のBBSとかでいやがらせの提案とか成功報告があり、それをまねする人間がネットを媒介して広がっていくような経過をたどっているのではないかということだ。
これが故意であるならば、尖った金属片をガードレイルに道路側に突き出すように取り付けて誰かが足を傷つけるのを面白がる心理は恐ろしく陰湿だ。おそらく「犯人」は現場に隠れて誰かが通るのを待つことはなく、誰かを傷つける金属片を設置したことで十分に満足したことだろう。

この事件から連想したのは対人地雷のことだった。
対人地雷も待つ兵器である。犠牲者に大きな怪我を負わせるものの殺さないでおいて救出・撤退の人手を増やし、戦闘能力を低下させること、地雷敷設地域に恐怖を蔓延させることで兵士の行動を緩慢にするといったその設計思想の陰湿さは、まさに戦争の生んだ知恵だ。戦争が終わったあとのことなど一切考慮されていない。

突出した金属片は、相手を傷つけることだけを目的としているという意味において、平和な日本に配置され始めたある種の地雷なのかも知れない。ある時代に伏流する悪意は象徴的な犯罪とそれを実行する人物を世の中に送り出す。ガードレールの金属片にもそうした時代のメッセージを感じるといったらおおげさだろうか。

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# by hatano_naoki | 2005-06-03 11:09 | 日日
私はなぜ、何を書くのか
メタ議論(?)が好きな私は、自分がなぜ、何を書くのかという問いを発することを不自然だとは思わない。
まず過去を洗ってみる。自分がこれまでなにを書いてきたかを思い返すのはそれほど難しくない。20代の終わり頃に旅行記のようなものを自費出版したことがある。出版とはいえないほどの薄く簡単な冊子だった。400字詰め原稿用紙にして100枚ほど書き、それまでに書いたもっとも長い原稿となった。
商業出版として最初に出したのは「パソコン通信操作術」(1991年、ソニーマガジンズ)というパソコン通信の解説書だった。
それからやはりパソコン通信関係の「ビジネスマンのためのニフティ・サーブ」(ASCII)を共著で出した。そのほか一、二のネット関係の本を書いた。
その後、在宅ワークをテーマにした「テレワークで仕事が変わる・会社が変わる!」(1998年、日本実業出版)を共著で出した。
2003年には「アンコール遺跡を楽しむ」(連合出版)を出した。
最初の本から15年近く経つのにろくな結果を出していないことになるが、それでも多少は自己評価できるのは「アンコール遺跡を楽しむ」で、この本にいたってようやくある程度書きたいことを書く方向に進み始めたという気はする。この本は「日本のロンリー・プラネット」(注)を意識して書いたものだ。
では一体どういう本を書きたいか。
現時点ではいわゆるノンフィクションの領域の本を書いてみたい。紀行も書きたいもののひとつだ。
現在、文章を書くのはウェブ上が多い。一銭にもならないが、自分にとっては呼吸のようなもので書かないと生きていけない。
単行本は時間ばかりがむやみにかかる。本を書くということは自らに大きな負担を強いることになる。今書いているのはカンボジアの紀行的な文章で500枚ほどの量だがすでに2年もかかってまだまとまっていない。仮題は「カンボジア・ノート」という。出してくれるところはまだ見つかっていない。「アンコール遺跡を楽しむ」も書くのに1年半かかっている。
しかし文章を切り売りして生活することに魅力を感じているわけではない。しっかりした文章が書きたいだけなのだ。そこで才能の壁に激突することになる。
なぜ書くのか。
書く行為が自分にすでに埋め込まれていて、特別のものではないという気がする。書くことが当たり前で、書かないことのほうが不自然に感じる。文章を書いて感じるある種のカタルシスが確かにある。特に長い文章を呻吟の末に書き終えるときの開放感が好きだ。

(注)ロンリープラネット=英文の旅行ガイド。一種の文明批評的な側面を持ち、日本の旅行ガイドとは比べ物にならない。

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蛇足だがこの画像は細身のイタリア製万年筆アウロラ。ずっと前、デザインにほれてピサの町で買ったが、今ひとつ書きにくい逸品だった。
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# by hatano_naoki | 2005-05-31 19:49 | 日日
目撃者の肖像
「ロバート・キャパ決定版」(原題Robert Capa:The Definitive Collection)という分厚い写真集を手に入れた。キャパは生涯に7万枚以上の写真を撮ったが、この本にはキャパが最初にメディアに発表した写真(1932年)から生涯最後の1枚(1954年)まで、1000枚近い写真が収められている。編集は弟のコーネル・キャパとキャパの伝記を書いたリチャード・ウェラン。
キャパの写真は何度か展示を見たことがあるが、これだけまとまって見るのははじめてだ。
まず、これまでに見たことがあって印象に残っている何枚かを探した。
私の好きな写真はいずれもスペイン内戦時に撮られたもので、それも共和国側の民兵の写真だ。ふだんなら町を歩いているような姿の男が銃を構えている。銃剣を腰に下げた女性の民兵が土嚢の陰から敵の姿をうかがっている。
民兵の服装はばらばらで装備も不十分に見えるが、その不統一は彼らの置かれた状況を如実に示すと共にその状況に対する彼らのメッセージとなっている。
ずっと昔、スペイン内戦に興味を持っていた時期がある。それは市民が武装して国を守るためにファシズムと戦うという図式への単純なロマンティシズムであり、国際旅団とかそういった「連帯と情熱」を象徴する英雄的な物語への憧れにすぎなかったかもしれないが、スペイン内戦が象徴的な戦いであり、私が学ぶべき多くの事柄を含んでいたのは確かだ。
フランコがあいかわらず権力の座にあった1980年代半ば頃にバルセロナに行ったとき、グエル地下教会に足をのばした。教会の管理人の名はエンリケといい、近所に畑を持っている年とった農夫で、内戦時に共和国側で戦った人物だった。少し足が悪かったがそれは内戦で負傷したからだという。
グエル教会の暗がりでエンリケの説明する声を聴きながら、私が実際に聴いていたのは彼の内戦の記憶であったのかもしれない。
キャパの写真には死体がそれほど登場しない。それがキャパの取材手法なのか、それとも編集者の選択なのかは分からないが、私にはキャパの視線そのものであるように思える。
今となってはキャパの切り取った戦場にはノスタルジックな雰囲気すら漂う。戦争写真が戦争の質を反映するならば、キャパの時代の戦争はその後大きく変容を遂げたことになる。
言い古された表現だが、そこにいない限り写真は撮れない。写真ばかりでなく、表現する者はそこにいなければ目撃できない。写真家はすぐれて目撃する者だが、戦場を撮る者は自分の最期すら目撃するのだ。

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# by hatano_naoki | 2005-05-31 16:39 | 日日
書く道具、そして何を書くのか
今現在の「書く道具」はSONY製のノートPC、VAIO SRである。
私が使っているモデルが登場した2002年頃のSONYはまだ元気があり、アグレッシブな製品を投入していたが、このSRシリーズも無線LAN/bluetoothの標準装備という当時としては贅沢な仕様だったし、なによりも長時間使用可能な大容量バッテリーの存在が魅力的だった。この機械でどれほどの仕事をし、文章を書いたかわからない。
丸3年が経過して、その間大きな障害もなく元気で動いているが、キーボードは相当くたびれてきて取りこぼしが増えてきているし、2本目の大容量バッテリーにも疲れが見え始めた。機構上の問題なのだろうが、液晶画面はうしろに倒れてしまいがちだ。
そろそろ次の「書く道具」を探さなければならないが、SONYのモバイルノートがほぼ壊滅した現在、残る選択肢はPanasonicのlet's noteシリーズの1スピンドルPC、R4くらいしか見当たらない。
モバイルノートは、極端な表現に走るなら、私の人生そのものである。
書くことによって自分は支えられ、他人とコミュニケーションする。そういう生活が最初にパソコン通信に出会った1987年頃から絶えることなく続いている。最初の頃はデスクトップ機の前に座り続けていたが、SRを使い始めてからは町が仕事場になった。それ以前も、FROM9MDとかOASYS30ADとかの富士通製ポータブルマシンを使って1980年代末からずっとモバイルコンピューティングなるものをやり続けてきたが、SRを持つことでビデオ編集を除いて私がPCでやりたいことのほぼ全てを喫茶店のざわめきの中でできるようになった。さらに最近は公衆無線LANによって私はつねにネットの中にいる。
こういう状況はいくらか不安で不安定だが、移動すること、考えること、表現することの距離がとても近いというメリットがある。ちょっとうまく表現できないのだが、私は移動・思考・表現の統合環境とでもいったものに溶け込んでいる。
まあこういう道具立てで書こうとしているわけだが、では何を書くのか?

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# by hatano_naoki | 2005-05-31 10:06 | 日日
矢立て
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stowawayの続きである。
この名前がThink Outside社のポータブル・キーボードのニックネームであることは昨日の記事で書いたが、おそらくその由来は折りたたみのギミックから来ているのだろう。
簡単にいえば半分に折りたたんでしまえるのだが、ちょっとスパイの小道具のようでもあり、その動き自体が精巧なおもちゃとしての愉悦を感じさせる。それで意味もなくパタパタと開けたり閉じたりして喜んでいるわけだが、やがてこのキーボードを入手した理由を思い出す。そう、私は喫茶店かどこかで小さなデバイスを取り出し、このキーボードをつないでおもむろに文章を書き始めたいのだった。
文章を書くにはノートPCのほうがいいに決まっている。画面の大きさは文章を見通す上で重要な条件だ。そんなことは百も承知の上で、小さなデバイスで文章を書きたい。その理由はおそらく、小さなデバイスが漂わせる「自由」の雰囲気にある。
d0059961_9232532.jpgしかし私の求めているような「小さな文章入力機」はなかなか見つからない。昔は文章入力に向いた小さな機械、たとえばOASYS POCKETとかJORNADAがあったが、そういうカテゴリーはなぜか絶滅してしまい、1スピンドルの小型ノートPCと携帯に収束した。単行本の分量はノートPCで書くが、今ここで欲しがっている私の機械はいわば「エッセイを書く機械」なのだ。
現代における電気仕掛けの矢立て。
そして、現代の矢立てと相性がいいのはおそらくblogだ。

写真下:矢立て(やだて)
墨壺に筆を入れる筒をつけた携帯用筆記用具。ひもで結びつけた革袋の中には、補充用の墨汁をしみ込ませ、墨汁がこぼれないようにもぐさなどを詰め込んだ。万年筆が一般化される昭和の前半頃まで使用。商人、区長などが腰に差して利用した。
(説明文、写真とも新潟市西川地区公民館ホームページより)
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# by hatano_naoki | 2005-05-30 20:25 | 日日
blogの由来
stowawayとは英語で密航者を意味する。
だがタイトルに深い意味はなく、最近入手したThink Outside社のポータブル・キーボード、stowaway universal bluetooth keyboardからとったにすぎない。
実はこのキーボードを入手するまでstowawayという単語の意味を知らなかった。しかしことばの響きとか意味合いとか、なかなかいいじゃないかと思い、blogをやるにあたってタイトルに使うことにした。
日本ではblogは公開日記として使われることが多いが、このblogにもたいした意味はなく、気のついたことを書き留める場所として使うつもりだ。
このblogは私が開設したblogとしてはたぶん3つ目で、つまり私とblogとの相性はあまり良くないらしい。いつもその目的とか内容で逡巡し、結局続かないという経過をたどってきた。
その理由は、私がすでにある種の日記をウェブ上に持っており、またエッセイとかちょっとした文章を載せるウェブサイトも持っているので、それらと重複してしまうということだと思う。
それにも関わらずまたもblogをはじめてみたのは、自分がblogの醍醐味をまだ知ってはいないという自覚、blogのメディアとしての役割を実感したいという願望による。
しかし、まあ、どうなるかわからない。
おそらくその名前の通り、このblogはstowaway(密航者)的な怪しい内容になる予感がある。d0059961_1384065.jpg
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# by hatano_naoki | 2005-05-29 13:10 | ネットとデジモノ