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死に至る病としての生
「死に至る病とは絶望のことである」といったのはキルケゴールだが、このことばの記憶に始まり、その本来意味するところを逸脱して「死に至る病としての生」あるいは死そのものについて考えるのは年齢のせいだろうか。
かんがえてみると、たぶんそれほどの時間が残っているわけではない。父親は65歳で死んだが、私が父親の死んだ年齢に達するまでに十年もない。そう思うと、ああ、なんて人生だったんだとため息が出るが、しかしまったく無駄な人生だったということでもない。
すばらしい風景を見たことがある。この世のものとは思えないほどの星空や雲海、茶色に濁った大河や見渡す限りの樹海、見渡す限りの荒れ野、吼える吹雪、何百メートルもの断崖とそこにしがみついた私。
何百もの旅の夜、何百もの仮のねぐら、そこですれちがった人々、彼らの歩く音、ささやき、咳払い。彼らの息遣いや一瞬の表情。
総じて私の人生は「見るひと」であったことになる。目撃し、心にとどめるが、それ以上でも以下でもない。見るということは積極的な参加を意味しないが、見ること自体が批評的な行動であるという幻想を捨てきれない。目撃し、自分の内部にとりこんで考え、それから表現する。こういう行為の循環を私は夢見ていたに違いない。
結局のところ、死を思う私は死そのものに対する形而上学的(?)恐怖と自分の表現が為されずに終わってしまうという人生の不完全な終わり方のふたつに引き裂かれている。前者は、ようするに認識の主体としての私の意識が死によって消えたあと、私が認識することによってのみ存在していた世界はいったいどうなってしまうのかということであり、後者は単に表現不全の悔恨にすぎないのだが。

(未完)
by hatano_naoki | 2005-09-14 08:54 | 日日
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