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沖縄勉強ノート(9)沖縄戦と東京大空襲
d0059961_2025352.jpg第二次世界大戦末期、制空権を失った東京は米軍のB-29による爆撃に晒された。
東京への空襲がどのようなものだったかを、まだ子どもだった私はとなりにあった旧家の婦人から聴いた。
きっかけは、その家の床の間にあった生け花の花器だった。その花器は細長くて赤茶色に錆びた六角形の鉄の筒だった。私が尋ねると、婦人はこれは焼夷弾よ、といった。
米軍機はまずガソリンを撒いていく。それから焼夷弾を落とす。内部にはゼリー状の油脂がつめられている。焼夷弾は束ねられて爆撃機から投下されると空中でばらばらになって飛散し、火の玉となって広い範囲に無差別に降り注ぐ。こういう武器が日本の木造家屋を焼き払うために開発された。
焼夷弾が降ってくる光景は実に美しかった、と婦人は言った。怖さも忘れて見とれていたという。
なぜ焼夷弾の筒を拾ってきて花器にしたのかと聞かなかったのはまだ子どもだった私の失敗だ。

東京に対して繰り返された爆撃の中でも、のちの歴史の中で東京大空襲と呼ばれる攻撃は、爆撃機による都市住民の無差別殺戮のもっとも悲惨な例である。民間人を狡猾な方法で虐殺したという点でこれはジェノサイドであるといっていいだろう。
合計344機ものB29が東京に飛来し、隅田川周辺一帯にまず環状に焼夷弾を投下して「火の壁」を作った。そのために内部の住民は逃げることができなくなり、その直後に開始された本格的な爆撃によって多数の死者を出すことになる。
1945年3月10日午前0時8分に初弾投下。12,000発、2000トンの爆弾が投下され、8万ないし10万人が死亡した。また当時の東京の面積の3分の1にあたる40平方キロが焼失したという。
市街地を徹底的に叩き、非戦闘員を多数殺すことで日本側の戦意を喪失させ、戦争の終結を早める。想定される多数の死者は日本本土で地上戦を行った場合の日本人民間人の死者に比べればはるかに小さい。こういう戦争の論理が展開されたはずだ。
これだけの死者を出しながら、航空機による殺戮の特徴として爆撃機の乗員たちは地上で起きた出来事を直接みることはなかった。また戦勝国であるアメリカに対しては戦争犯罪の追及の手が及ぶこともなかった。

d0059961_985117.jpg沖縄の地上戦は1945年4月1日に本島中部の西海岸への上陸用舟艇による古典的な上陸作戦によって始まり、6月23日に組織的抵抗が終わったとされるが、実際には本島北部でその後数ヶ月間にわたってゲリラ戦的的抵抗が続いた。
沖縄戦で多くの住民が米軍のみならず日本軍からも死に追いやられたのは周知の事実である。
沖縄戦の特徴は、住民が戦場に取り残されただけでなく、攻撃の対象となったことだろう。
住民の意思にかかわりなく、戦闘員・非戦闘員の区別がつかない状況を日本軍が作り出したためだ。また初期の大規模な戦闘が終息したあと、一個人が敵と直接対峙するという、戦闘というよりも殺人といったほうがいいかもしれない小さな戦場が無数に生まれたことも特徴的である。
戦闘は具体的かつ直接的であり、屍によって敵の死を確認する古典的な戦いが繰り広げられた。その結果、住民の死者だけで10万近い数にのぼる(戦闘員をふくむ日本側の死者は20万前後と推定される)。
一夜にして都市住民10万人を殺戮した大空襲と、洞窟から洞窟へと火炎放射器で焼き尽くしていった何ヶ月の結果としての非戦闘員の死者10万人。沖縄戦の悲劇の性格は地上戦ないしは市街戦の特徴そのものだが、あまりにもつらい印象が残るのは沖縄戦自体が本質的に無意味な戦いであり、予定された消耗だったという絶望感に由来するに違いない。
(写真上:東京大空襲に使われたB-29爆撃機 写真下:沖縄戦の経過[拡大可能])
by hatano_naoki | 2005-12-04 18:40 | 沖縄勉強ノート
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