以前、アンコール期の寺院には中国の影響はないのかとカンボジア人の友人にたずねたことがある。
答えは「ない」だった。「ありえない、ないに決まっている」ということだ。 一般的には、クメール建築はインドの影響を受けつつ独自の進化をとげたとされる。事実、私はインドでアンコールを彷彿とさせるような寺院建築を見た覚えがない。 ところで、これは間違いのない事実だろうか。 私にはクメール建築に中国建築の影響があるように思われてならない。これも妄想の一部だが、ハンチェイの石造寺院には中国の建築かと思えるような部分がある。 インド人が官僚や宗教指導者としてカンボジアの支配階層の一部を形成していたのはたしかだろう。中国人は商業に従事していたとされるが、本当にそれだけだったのだろうか。中国人の建築家が関与した可能性はなかったのだろうか。あるいは中国の寺院のイメージがクメール寺院のどこかに生きているということはないのだろうか。 クメール寺院の形態や構造は木造建築の痕跡を残す部分があると聞いたことがある。しかしインドでは木造の寺院は(おそらく昔から)とても少ない。 インドと中国のあいだにあるカンボジアで中国の影響が商業活動の掌握にとどまったとはとても思えない。 「クメール建築における中国文化の影響」を科学的に検証してみたら面白いと思うのだが。 現在の沖縄の観光イメージは、戦後に本土の観光資本主導で形成された。 ところで、島津侵入以降の琉球のイメージも、島津の支配戦略を反映して島津の影響下で半ば人工的に形成されたのではないか? 琉球の独立性、独自性、存在価値を強調するために、日本と中国に対して琉球のイメージを強調するような文化政策がとられたのではないか? つまりわれわれの見る沖縄とは、時代時代におけるいくつもの「作り出された沖縄らしさ」の累積なのではないか? 琉球における久米三十六姓とアンコール朝に仕えたインド人の体制内の立場、役割、存在意義には似たところがある気がする。 たぶん「アンコール朝に仕えたインド人の研究」というのは存在しないのだろうが、大きな役割だったのではないだろうか。 私の理解では久米三十六姓は事実上、対中国貿易を取り仕切ったが、琉球人がしだいに代替していったということはなかった。彼らは技能集団であり、権力集団ではなかった。あくまでも琉球王朝に朝貢貿易遂行にためのサービスを提供した。一部の者は権力構造の最上層にまで登ったが、それでも支配よりも技能(この場合は行政官としての技能)の提供に心を砕いたように思われる。 つまり彼らは調和的、平和的に存在していた。 アンコール時代のカンボジアにおけるインド人にはおそらく(すくなくとも)祭祀、行政(これらは一体化していたといったほうがいいのかもしれないが)、それに土木建築を担う人々がいた。 彼らもまた、体制内で久米三十六姓のような役割を果たしたのではないか?高度な技能集団としてアンコール朝にサービスを提供した、権力志向の弱い集団だったのではないか? (アンコール時代のカンボジアでは)中国人は経済にしか興味がなかったがインド人は政治に関与したといわれるが、その実態はどうなのか? 先行研究の成果を知りたいところだ。
by hatano_naoki
| 2006-05-11 22:17
| 沖縄
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