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沖縄勉強ノート(94)25000分の1地形図と沖縄戦史
沖縄勉強ノート(94)25000分の1地形図と沖縄戦史_d0059961_22131212.jpg国土地理院の25000分の1地形図のうち沖縄南部の何枚かを買った。そこに米軍の本島上陸以降の主な戦場をプロットしようとしている。米軍は作戦上の必要から目立った地形(主に高地)にニックネームをつけた。高地といっても標高20メートルくらいの微高地もふくまれている。標高が問題なのではなく、目視したときに目印になるかどうか、また日本軍が布陣しているかどうかが問題になったと思われる。南部での戦闘は高地の陣取り合戦の繰り返しだったといってもいいようだ。
激しい白兵戦が繰り返された嘉数高地や前田高地など、首里北方の戦況を確認しながら地図に書き込みをしていくうちに、なにか息苦しさが感じられてくる。島尻での戦況を読んでいると絶望的な気分になってくる。
25000分の1という縮尺は沖縄における戦況の概略を把握する上では必要十分だと思われる。等高線の間隔は10メートルで、微高地が表現されている。25000分の1が標準となる前の5万分の1地形図ではおそらく不十分だろう。また地図の大きさと携帯性からもバランスがいい。
地図は現代のものだ。戦後の沖縄では地形は大きくかわっている。地上戦が展開されていた当時の地形が保存されていないところもずいぶん多い。微高地は削られてなくなり、家が密集して等高線が見えなくなる。
実際にそこに行ってみても戦場の光景を想像することはできないに違いない。それでも一度は主な戦場を見ておきたい。それはたとえば地下壕を訪ねるというようなやりかたではなく、南下してゆく戦線そのものを実感してみたいのだ。眺望、距離感、雰囲気、空気。そういった要素の記憶を体に残しておきたいのだ。
こうした旅のために、たとえば弁ケ嶽を米軍の名づけたトムという名で、八重瀬嶽をビッグ・アップルというふうに、オリジナルの地名をすべて消してしまい、米軍による呼称と日本軍の用いた呼称だけで作った地図を作ったらどうだろうか。そこまでは無理なので、今は25000分の1地形図上に米軍と日本軍による呼び名を書き込んでいるところだ。
こういう作業をしていると両軍の動きが具体的にわかる。また作戦を進めるにあたって地形が重要だったことがわかる。周囲よりも高いところに日本軍は防御拠点を築き、米軍がそれを奪取するための攻撃を行うという繰り返しだったこと、こういった高地の争奪では敵味方が手りゅう弾を投げ合うような近接戦闘が行われたことがわかる。
これまでは沖縄戦における戦線移動の概要は理解していたが、その実態は個別戦闘の累積であるわけで、結局のところ戦史のレベルにまで降りていかなければならない。それにしてもすさまじい戦闘の繰り返しだ。
ところで、戦史には戦闘の推移は記録されているが住民の状況がほぼ完全に抜け落ちている。まるで無人の戦場で両軍が戦っているかのようだ。戦史とはそういうものだが、それにしても奇妙な感覚にとらわれる。また部隊の構成員の実態についても語られていない。つまり兵士が本土からやってきた職業軍人であったのか、戦闘に参加させられた地元民であったのかは書かれていない。住民を軍がどのように扱ったかも書かれていない。
戦闘の様子を地図上にプロットしたあとで、集落ごとの住民の被害を追加するべきだろう。たとえば嘉数集落の住民は半数が死んでいる。
by hatano_naoki | 2007-01-07 23:11 | 沖縄勉強ノート
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