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ことばのあいまいさがこの国の政治をだめにしている
久間防衛大臣が「原爆投下はしょうがない」という趣旨の発言をしたことに対して、世間は怒り心頭のようだ。その結果なにかよくわからない経過をたどってこの大臣は辞任してしまった。
発言の意図にも、それに対するさまざまな反応にも、なかなか興味深いものがあるが、まずこの初代防衛大臣が何を言ったのか、言おうとしたのかということをはっきりさせなけれなならないだろう。
ところで彼は正確には「原爆投下はしょうがない」とは言っていない。「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。」と言い、「旧ソ連の参戦を食い止めるため原爆を投下した側面がある」として、原爆投下によって日本の降伏が早まり、北海道がソ連に占領されずにすんだことを強調したという。
このできごとに関連して私が興味を持ったのは、原爆投下という日本にとって大変に重大かつ悲惨なできごとを語るとき、「しょうがない」というあいまいで感覚的なことばを持ってくる意識と、その意味するものについてだった。
広辞苑によると、「しょうがない」は本来は「しようがない(仕様がない)」であり、施すべき手がない、始末におえないことを意味する。自力ではどうしようもない状況を結果として受容し、自分の希望する方向に事態をもって行くことをあきらめるという態度をとり、あるいは判断をするときに「しょうがない」というのだろう。状況の消極的肯定にはじまって、対峙している自分よりも大きな相手に同化し協力ていくような精神状態であるようにも、その先の思考を中止することの表明であるようにも思える。思考を停止し、反対しないことによって、賛成に力を貸す。これが「しょうがない」の意識構造だと私は考えたのだが。
「しょうがない」という曖昧模糊としたことばを使うことなく、自分の思考を正確に伝えようとする意思があったなら、東大法学部を出た政治家はどんなことばでどんな説明をしただろうか。
by hatano_naoki | 2007-07-08 10:21 | 日日
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