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はじめての読者
記憶の底に沈んでいて、ごくたまにあぶくのように浮かび上がってくるイメージをどこかに固着しておきたい。とりあえずは短いメモにしてブログに貼り付けておこうかと思う。

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 二十代の終わりにちかくなって、小さな本を自費で出版した。編集者になるための専門学校に通っていた知り合いと御茶ノ水の喫茶店『穂高』で落ち合っては本を作る作業の実際を教えてもらいながら進めていった。インドに旅したときの旅日記をもとにして書いた四万字ほどの原稿を三十二ページの小冊子に押し込んだのは三十二ページというのが紙の取り都合からいうと無駄がないと教わったからだし、三十二という数字もなんとなく気に入った。
 紙を選ぶのは実に楽しい作業だった。紙の手触りは本を取り巻く喜びの半分は占めているに違いないとわたしは思っている。そのときは厚手の黄ばんだ色合いの用紙を選んだ。ページ数の少なさをカバーする目的もあったが、厚手の紙に活字を刻み付けるように印刷された活版の文字が好きだった。そう、その当時は活版印刷が生きていたのだ。
 原稿ができあがると武蔵小山の裏道にあった小さな印刷所に印刷を頼んだ。千部作って十万円。校正刷りができたというのでその印刷所に行くと、中年の文選工が「おもしろかったよ」と声をかけてきた。文選工という職業は今はほぼ消滅してしまっている。印刷のための活版を組むために鉛の活字を拾う仕事だ。
 文選工という仕事は無感動にただただ文字を拾う仕事だと思っていたわたしはちょっと驚き、それから気恥ずかしさとうれしさがわきあがってきた。わたしの本のために活字を拾ってくれたそのひとこそがわたしの文章の最初の読者であり、「おもしろい」といってくれた最初の人物だった。
 できあがった本は一部三百円で売った。あちらこちらの書店に委託で置いてもらい、友人たちも買ってくれた結果、三百部が売れて原価を回収できたのには自分でも驚いた。それから三十年経ち、在庫はまだある。
by hatano_naoki | 2008-04-18 21:12 | 記憶のメモ
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